テノール :
ジョン・マコーマック(John McCormack)
作曲
ジェームズ・モロイ(James Lynam Molloy)
作詞
クリフトン・ビンガム(G. Clifton Bingham)
in 1884
*** ***
Love's Old Sweet Song
Once in the dear dead days beyond recall .
When on the world the mists began to fall
Out of the dreams
that rose in happy throng
Low to our hearts
love sung an old sweet song .
And in the dusk
where fell the firelight gleam
Softly it wove itself into our dream
(*Chorus)
Just a song at twilight,
when the lights are low
And the flick’ring shadows
softly come and go
Though the heart be weary
sad the day and long ,
Still to us at twilight
comes love’s old song
Comes love’s own sweet song
Even today we hear love's song of yore .
Deep in our hearts it dwells for evermore
Footsteps may falter,
weary grow the way
Still we can hear it at
the close of day
So till the end,
when life's dim shadows fall
Love will be found the sweetest song of all
(*Chorus)
Just a song at twilight,
when the lights are low
And the flick’ring shadows
softly come and go
Though the heart be weary
sad the day and long ,
Still to us at twilight
comes love’s old song
Comes love’s own sweet song
中学校の音楽の教科書に、載っていました。
べつに、この歌が好きで、ありません。
なつかしいだけです。
歌詩が、昔を懐かしんでいますから。
曲は、アイルランドの創作民謡の感じで、
作曲者は、
アイルランドからアメリカに移住した人です。
作詞者も、アイルランドの童謡作家ですが、
歌っているマコーマックが、
アイルランド出身の、
一世を風靡したテノールですから、
アイルランド尽くしです。
吉田茂が1等書記官の頃の、
1921年の、ロンドンの日本大使館で、
藤原義江が歌った時に、
たくさんのイギリス人から、
ジョン・マコーマックに似ていると、
評価されましたので、
わたしは、ちょっと聞き比べてみました。
このブログに、貼りつけて置きます。
2人とも、リリックな声質ですが、
マコーマックは、上品です。
藤原義江は、元気が良いけれど、
声が足りなくなります。
マコーマックは、息継ぎが上手く、
スキーパ(Tito Schipa)を、思い出します。
藤原義江は、マコーマックと並ぶ大器として、
世界に紹介されましたので、
突如として、彗星のごとく、
世界のオペラ界に登場しました。
わたしの感じでは、藤原義江のほうが、
遥かに大胆に、お客さんを喜ばす声ですが、
マリオ・ランツァ(Mario Lanza)のように、
聴き応えのある声は、喉を傷めますので、
長持ちしません。
マコーマックは、大人です。
抑制が効いて、面白くありませんが、
教科書向きと、思いました。
マコーマックにしろ、藤原義江にしろ、
自分の国の歌を、たくさん歌いましたので、
立派です。
国民栄誉賞の藤山一郎は、
藤原義江に比べて、
遥かに上品で上手いけれど、
ちっとも、面白くない。
歌に、抑揚がありませんでした。
クライマックスで、射精するような感じが。
喉が潰れても、わたしは知らん。
マコーマックは、大人でした。
この歌は、有名ですから、
日本語訳は、たくさんあります。
ただの、死にかけの年寄りが、
昔を懐かしむだけの歌って、
アイルランドの歴史のようです。
1845~1849年に、ヨーロッパでは、
ジャガイモ疫病菌
(Phytophthora infestans)が、
流行して、
ジャガイモやトマトが、
大きな被害を受けました。
そのせいで、
アイルランドだけが、大飢饉になり、
100万人近くが餓死して、
200万人が、外国に移住しましたので、
出生率や寿命の低下と合わせて、
800万人の人口が、400万人にまで、
減少しました。
ジャガイモ生産のモノカルチャーと、
イギリス人の不在地主が、
飢饉救済に反対したことが、
原因と言われています。
この歌は、
1884年に作曲されましたので、
70才の年寄りが、
昔を懐かしんでいるとすれば、
30才代前半に、
大飢饉を経験しています。
平均的な農民でしたら、
おそらく、家や土地を売り、
食料を買い、
都会に出て、生き延びたはずです。
身内に、餓死者がいますので、
もしかしたら、配偶者や子供を失い、
食糧事情が回復してから、
再婚したのかも知れません。
作詞者のビンガム(1859〜1913年)は、
大飢饉後の生まれですが、
作曲者のモロイ(1837〜1909年)は、
8~12才の頃に、経験しているはずで、
作曲時(1884年)に46才ですから、
記憶は鮮明です。
日本では、幕末ですが、
その少し前の、
天保の大飢饉(1833~1837年)に、
125万人が死にました。
東北地方には、いまも、
「隣の家の婆さんの脚を、一本貰った」
という類(たぐい)の言い伝えが、
たくさん残っています。
おそらく、アイルランドの大飢饉でも、
餓死者の肉を、食べたはずです。
若い頃に、大飢饉を経験したが、
今は年老いて、死ぬのを待つばかりの、
平穏な日々であると、
昔を懐かしんでいるように、
聞こえます。
人肉を食べた記憶も、なつかしい。
年を取ると、
そういう気持ちかも知れませんが、
作詞者は、年寄りや作曲者から、
話を聞くだけで、経験がありません。
それが、この不思議な音楽の、
事情かも知れないと、憶測しています。
わたしは、
人肉を食べたことがありませんが、
スーダンやアフガニスタンの内戦を、
見たことがあります。
この情けない歌詞が、
アメリカに移住したアイルランド人の、
絶大な支持を得ましたが、
ジェイムズ・ジョイス
(James Joyce)の、
ユリシーズ(Ulysses)のような
心意気が、まるでない。
まだ、そこまでは、
民族の心が、回復していませんでした。
こんな歌を、中学生のわたしが、
歌っていましたから、唖然とします。
なんで、教科書に載せるのか・・・
懐かしい歌ですが、
天保の飢饉に、幕末の志士たちは、
何も感じていません。
坂本龍馬や西郷隆盛は、
徳川慶喜に負けず劣らず、あほでした。
高須四兄弟の会津の松平容保などは、
飢饉後の生まれとは言え、
この歌のように生き延びて、情けない。
彼らを褒めた司馬遼太郎も、
救いようのないロマンティックな新聞社の、
時代錯誤の従業員でした。
わたしは、
永田洋子や麻原彰晃や植松聖などの、
極悪非道のあほのほうが、
何を感じるべきかを、知っていたと、
思います。
彼らは、頭が悪かったので、
どうすれば良いかを、理解できずに、
とんでもないことを、しでかしただけですが。
わたしは、坂本龍馬や司馬遼太郎のような、
ロマン主義やエステティックを
少しも疑わない人間の風下に、
1度も立ったことがありません。
幕末の志士や、明治の元勲を、
感化したロマン主義が、
荒唐無稽な絵空事であるのは、
小学生や中学生のわたしにも、
わかりました。
血液型占いのような日本国憲法を、
だれが信じますか。
あほくさい。
永田や麻原や植松のようなあほを、
大切に育てたい。
とんでもないことを、しでかさずに、
判断の組合わせを、
あれこれと変更できる人間に、
育てなければいけません。
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