昔、ローズマリーの赤ちゃんという映画が、
流行(はや)りましたが、
植物のローズマリーの、
Rosmarinus officinalis という学名の、
Rosmarinus(マンネンロウ属)は、
海の雫(しずく)を意味する神秘的な言葉です。
キリスト教の聖母マリアは、
当時のヘブライ語の、よくある女性の名前の、
ミリアムが、
ローマ人に、マリアと、聞こえたそうです。
ヘブライ語のミリアムの表記を、
アラム語で読むと、マリアになるとも、
言われています。
わたしは、知りません。
旧約聖書で歌い踊り、
モーゼを非難した予言者ミリアムや、
新約聖書の、マグダラのマリアや、
イエスの磔(はりつけ)を目撃したサロメなど、
キリスト教には、
多数のマリアが登場しますので、
ごく普通の、ありふれた名前であったと、
わかります。
4世紀の、
聖書のラテン語訳のヒエロニムスが、
ヘブライ語のマリアの語源を詮索して、
海の星と、翻訳しました。
女性の名前を、
語源に則して翻訳しなければいけないのか、
疑問ですが、
海の雫(しずく)が、正解で、
海の星は、誤訳です。
どうでも良いことですが、この誤訳のせいで、
植物のローズマリーが、
妊娠の神秘的な意味に使われたり、
聖母マリアが、
航海の守護神として崇められたりしました。
植物のローズマリーは、キリスト教以前から、
ヨーロッパの冠婚葬祭や生薬に、
使用されていたそうですが、
マリアの名がついたのが、
いつなのか、何故なのかを、知りません。
青い花が、海の雫や星に、
見えないことも、ありませんが・・・
映画では、
抗精神病薬を注射されて、分娩しますが、
気づくと、死産だったと、言われます。
我が子を取り戻そうとして、
悪魔の子を産んだと、知りますから、
抗精神病薬の中毒による精神症状と、
区別がつきません。
ロマン・ポランスキー監督の妻は、
シャロンテートです。
悪魔を崇拝する宗教家の信者に、
殺されました。
映画のロケに使われた小さなマンションは、
後に、ジョンレノンが暮していましたが、
マンションの前で射殺されました。
*** ***
このブログは、植物の写真と、
形而上学や精神医学などの、抽象的なことを、
書いています。
端的には、宅間守や植松聖の犯罪は、冤罪であり、
真犯人は、精神科医であることや、
統合失調症や躁うつ病などの、
狭い意味での精神病は、
治療と称する抗精神病薬の投与により、
強制的に作られた病気であり、
薬物の依存や禁断症状などのほかに、症状はなく、
投薬以前に症状があったとする証拠や証明もないと、
書いています。
なぜ、人は、このような病気を捏造するのか、
なぜ、人は、それに気づかないのかは、
精神が、抽象的であるから、というだけでなく、
当人や一般人や精神科医や法律家などの、
頭が悪いからですが、
狭い意味での精神病は、
かつて早発性痴呆と言われたように、
他人の頭の悪いことを、医者がなじる病気であり、
医者の病気だからです。
わたしは、小学2年生頃に、
たいへん疑問に思ったことがあり、
今も、解決されていませんから、
何の実害もないことが、奇妙です。
おそらく1才くらいまでに、
すでに、生じていた矛盾ですが、
言葉に表現して、
記録できるようになったのが、
小学2年生であった、というだけです。
根本的には、
知性や論理法則の矛盾であり、
おそらく、生まれつきです。
瞬時に感じる疑問ですが、
何も自覚しない人もいますし、
ゆっくりと考えなければ、
理解できない人もいます。
欧米人が、古代から、2000年間も、
感じ続けていた疑問と、同じですが、
日本人は、感じない人がほとんどです。
知覚の内容が、孤立しているので、
他人に伝えられないだけでなく、
写真に撮影された映像が、
知覚の内容と同じであると、
他人が検証することも、できません。
同じであると、言葉で伝えれば、
写真を見るだけで、
他人の知覚の内容を、
見たことになりそうですが、
写真には、嘘や間違いがないけれど、
人間の言葉は、
嘘や間違いかも知れません。
言葉が、嘘や間違いでないことを、
検証しなければいけませんが、
それができません。
わたしや他人は、もちろん、
誰であっても、構いませんから、
写真に写っている映像が、
誰かの知覚の内容と同じであると、
一度たりとも、
検証されたことがないのに、
わたしたちは、写真の風景が、
人間の知覚の内容であると、
思い込んでいます。
この思い込みが、
正当であるとする根拠は、
論理法則と言われる規則性ですが、
個人の知覚の規則性を、
個人が感じたことですから、
1人1人の規則性が、異なります。
おそらく、遺伝形質の組合わせを、
表わしています。
それぞれの人が、
自分流の論理法則を適用して、
写真の風景と、
自分の知覚の内容が同じであると、
同定しますから、
わたしたちが、
写真の映像と、知覚の内容が、
個人の判断を超えて、
一般的に同じであると、
判断する根拠は、
同じという言葉を、
共有しているだけです。
写真の映像も、知覚の内容も、
論理法則も、共有していません。
それなら、
言葉も、共有していないのでないかと、
疑われます。
音声であれ、文字であれ、
知覚されなければ、伝わりませんから。
何も共有していない、というのは、
とても虚しい結果ですが、
それでも、わたしのように、
何の実害もないから、奇妙であると、
思う人もいれば、
それだから、世の中や人生は、
実害だらけであると、納得する人もいます。
ほとんどの日本人は、
この議論を、理解できませんが、
欧米人は、古代インドの時代から、
この議論と、
コンピュータの議論ばかりでした。
インド人は、今でも、
コンピュータが得意ですが、
日本人は、電卓を世界に売りまくったのに、
パソコンに負けて、バブルになり、
経済が左前になり、
いまだに、海底に沈んだままで、
もうすぐ、わたしと一緒に、死にます。
ソ連が潰(つぶ)れたのも、
ノーメンクラツーラと言われる官僚制度と、
コンピュータに乗り遅れたからと、
言われたように、日本と同じです。
古代インドの人たちは、
コンピュータの仕組みを考えれば、
知覚の仕組みが解決すると、確信しました。
インド人やペルシャ人や欧米人だけでなく、
アラブ人や日本人や中国人も、
インドの神々を、信じているのに、
知覚とコンピュータの関係が、
神話になり、世界に普及したことを、
理解できなかった日本人やロシア人は、
相当な未開人であると、わかります。
おそらく、特定の遺伝形質が欠落して、
色盲と同じ状態に、なったのでしょう。
星座を見て、神話を思い出すのに、
論理法則の運用と、神々の関係が、
知覚の仕組であると、
瞬時に理解できないのは、あほです。
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