わたしは草花が苦手(にがて)で・・・
品種が多く、覚えようがありません。
掛け合わせれば、簡単に雑種が出来ますので、
樹木のように、樹齢8800年などと、
悠長でなく、
Time and tide stay for no man. です。
種(たね)を蒔き、
クリスマスローズを育てると、
万年青(おもと)やバラのように、
それぞれの個体が、1つの品種として、
異なる顔や身体に、育ちます。
こんなのを作ったと、持ち寄り、
融通し合う楽しみに、嵌まると、
病みつきです。
Helleborus niger(クリスマスローズ)
だけでなく、
キンポウゲ科の Helleborus 属の種(しゅ)が、
ほぼ全て、
クリスマスローズの品種改良のための、
原種として、交雑されますので、
バラの品種と、似たような状況です。
新しい品種を作るために、
近縁の種が、総動員されますので、
バラやクリスマスローズの名前は、
種(しゅ)の系統分類を超えた園芸単位と、
理解すべきでしょう。
クリスマスローズに限らず、
草花の品種は、
すべて、そうかも知れませんが、
クリスマスローズは、宿根草なので、
種(たね)を蒔き、自分で作った品種を、
簡単に保存したり、株分けしたり出来ます。
わたしは、知りません。
夏も冬も、放置したままで、枯れません。
わたしは、知りません。
夏も冬も、放置したままで、枯れません。
花びらに見えるのは、萼片(がくへん)ですが、
雄しべの束の、根元を、
ぐるっと短く囲んでいるのが、花びらです。
花びらも萼片も、
どうせ、葉っぱから、分化したものですから、
花びらと名付けようが、萼片と名付けようが、
立ち位置の、順番が違うだけで、
さしたる意味は、ありません。
*** ***
右も左も、わからなければ、
人のなされるままに、
何の抗議も、表わさないかも知れません。
言葉も、通じなければ・・・
目で見て、耳で聞き、直接に知覚したことを、
間違いないと、確信するのは、
嘘や間違いなどが、人の行動の原因になり、
抗議しないでいると、
殺されたり、不利益を蒙ったりすることを、
殺されたり、不利益を蒙ったりすることを、
知っているからです。
社会の仕組みを、知らなければ、
嘘や間違いに、抗議することも、
目で見て、耳で聞き、間違いないと、
確信することも、ないでしょう。
嘘や間違いや本当や、事実や論理法則などが、
わたしたちの行動の基準になるのは、
判断の枝分かれの、枝葉末節のほうだけです。
わたしたちの判断のほとんどは、
動物的な反射や、
1才くらいまでの、学習により、
成り立っています。
刑事訴訟や精神医療により、
懲罰したり投薬したりするのは、
無意味であり、有害です。
人間に抗精神病薬を投与するのは、
犬に投与するのと、ほとんど変わりません。
大阪教育大学付属小学校の宅間守と、
津久井やまゆり園の植松聖に、
共通するのは、
抗精神病薬や抗不安薬などの、
向精神薬の作用により、
犯行に及んだ可能性が、大きいことです。
彼らだけでなく、法律家も、
薬物の作用を、知りませんが、
一般の人は、
向精神薬を飲めば、精神疾患が治ると、
思っているように、
法律家や一般人の無知が、
事件の原因です。
彼らの精神疾患の根拠は、
文学にすぎませんから、
薬物を投与しても、治りません。
病気であるとする合理的な根拠も、
ありません。
投薬が、人格の死を招くことを、
知らない精神科医は、いませんから、
犯行の全責任は、精神科医にあります。
犯行を予測できない精神科医は、
病気であると、診断すべきでなく、
投薬すべきでありませんでした。
宅間君や植松君には、
何の責任も、ありません。
冤罪です。
真犯人は、精神科医です。
自分が直接に知覚して、
間違いないと確信する出来事により、
1才以降の、人間の世界は、成り立っています。
文化が、個人の脳を、使っていますから、
精神病患者の思いは、病気の症状でなく、
正しい認識です。
被害妄想やさせられ体験などと、
名付けられていますが、精神症状でありません。
こうすれば、必ずこうなるとか、
こうなれば、必ずこうするとか、
未来を予言して、100%的中することが、
たくさんあります。
人は、必ず死ぬとか。
間違いが嘘でないのなら、
嘘をついても、自分で気づかない。
投げ上げたボールは、落ちて来るとか、
科学が確信することは、
まず、100%当たると思って、
間違いありません。
世界は、自分が直接に知覚したことと、
科学が確信する規則性により、
成り立っています。
自分が直接に知覚していない事や、
科学が確信していない規則性などは、
世界の構成要素でないのでしょうか。
たとえば、新聞やテレビが伝えることは、
ほぼ全部が、
自分は直接に知覚していませんし、
科学が、規則性を確認したことでも、
ありません。
マスコミの伝えることは、
ほぼ全部が、嘘や間違いであり、
世界の構成要素でないのでしょうか。
それとも、
確かでなく、嘘や間違いでもないことが、
世界の構成要素であるだけでなく、
嘘や間違いなどの、架空の話題が、
世界のほぼ全部を、
占めているのでしょうか。
個人に知覚された物であるか否か、
それとも、
個人の知覚の規則性と同じであるか否かの、
真偽の判断は、
複数の人が共有する物事(ものごと)の存在と、
別なのでしょうか。
個人的な物の存在や、
個人的な事の規則性に、かかわらず、
複数の人に共有される話題が、まず存在して、
後から、
それらの真偽が、判断されるのでしょうか。
コンピュータを作った考え方は、
イギリスの経験論者が、
論理法則と言われる規則により、
物事の判断を、機械的に処理することでした。
経験論者は、個人的な経験の規則性を、
論理法則としますから、
科学は、個人の経験していないことを
個人の経験則から、類推します。
自分と他人の、経験の規則性が、
同じであるか、違うかを、
知ることが出来なくても、
同じであると、科学は定義します。
それでも、上手(うま)く行くのは、
個人の知覚の破綻を、
他人は、共有できないからです。
欧米の科学者のほとんどは、
唯物論やロマン主義などを、
信じていませんが、
スターリンやヒトラーやムソリーニは、
信じていました。
日本国憲法は、
ロマン主義の極致のような狂信ですが、
マッカーサの趣味でしょうか。
個人の知覚を犠牲にしても、
自然や事実の規則性や、論理法則などの、
複数の人に共有される架空の概念の、
根拠は、得られません。
金本位制でなくなっても、
金が蔑まれる理由に、なりませんので、
実存主義のように、
個人の知覚を大切にする考え方が、
第二次世界大戦後に流行しましたが、
すぐに廃れました。
個人の知覚と、
複数の人に共有される事実や社会の
規則性は、
比較できるのでしょうか。
似ても似つかぬものかも、知れません。
わたしには、社会や、個人の脳などが、
ひとつながりの、コンピュータのように、
見えますが、
精神病患者も、そう言います。
自分は、コンピュータの中に、
住んでいると。
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