大阪の鶴見緑地で見かけましたが、
幹に、デカイ名札を巻き付けて、テーダマツと、書いてあります。
下のほうに枝がなく、葉を、手に取れません。
カメラのSDカードの中身を、パソコンで見ると、
葉っぱが短く、テーダ松(Pinus taeda)に見えません。
毬果が、ドイツ唐檜(ドイツトウヒ Picea abies)です。
手に取って見たのでなく、写真判定ですが、テーダマツでありません。
遠くから見て、ドイツトウヒと紛らわしいのは、
樅(モミ Abies firma)の木ですが、
モミの毬果は、ピンと上に立ちます。
モミの毬果は、ピンと上に立ちます。
ヨーロッパや日本で、
クリスマスツリーとして使われるモミの木は、
ほとんどが、だらんと毬果のぶら下がるドイツトウヒです。
おそらく、樅の木として売られています。
写真の木は、ドイツトウヒです。
まだ若木の、高さ20mぐらいでしたが、
下から見上げると、毬果が短く見えます。
たぶん、横から見ると、もっと長く、
男性器よりも、遥かに太いが、
ドイツトウヒ特有の、にょろっと長く伸びた感じに、見えるはずです。
ヨーロッパトウヒや、オウシュウトウヒとも、言われます。
なんで、テーダマツと、間違えたのか・・・
全然違います。
でも、高いところにしか、葉がないので、
下から識別できなかったのかも。
植樹した時の名前でなく、後から同定したのでしょう。
公園の名札は、間違いが多いので、気を付けないと。
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知覚の対象の事実や、知覚の主体の精神などの、
個人的な知覚の経験と、
論理法則と言われる遺伝形質の組合わせによる知覚の、
個人的な規則性から、
わたしたちは、他人と共有するための、
公共の知覚や論理法則を、談合して、
科学や科学技術を、立ち上げたのでしょうか。
個人的な、知覚の経験や規則性でなく、
コミュニケーションのための、
言葉やビデオや音楽やエステティックなどの、
他人と共有されたメディアの表現が、
個人の知覚に依らずに、独立して存在すると、
科学技術や科学は、確信しました。
メディアの表現と規則性を、社会や自然の、事実や摂理として、
個人の知覚しない権力を、信じるかのように、
科学的な文化や自然を、吹聴しました。
わたしたちは、科学技術や科学のように、
文化的に作られた事実や精神を、個人的に知覚しています。
技術と言われるメディアの事実に、
科学と言われるメディアの規則性を、適用して、
科学技術を知覚します。
そのことを、ロマン主義は、
事実と精神や、個人と社会や、個人と自然や、社会と自然などの、
一致と言います。
権力が、中央集権を目指したようなものです。
わたしたちは、個人的な遺伝形質によらずに、
公共の事実や精神を、知覚できるのでしょうか。
コンピュータは、ロマンティックな考え方に、
矛盾しないのでしょうか。
個人の知覚に依存しない社会や自然の、
秩序や摂理や論理法則などの、規則性は、
権力の帰趨ですので、
科学技術や科学は、刑事訴訟や精神医療のように、
公共の事実や精神の、不正な捏造に見えます。
無意識の自動的な知覚から、
論理法則と言われる規則性が意識されれば、
個人的な事実が見えるように、
メディアの規則性を、個人的な事実に適用すれば、
自然の摂理から、科学技術を得たと、表現されます。
ロマン主義は、科学主義や社会主義を掲げましたが、
ムソリーニやヒトラーやスターリンの目論見は、
破綻しました。
第二次世界大戦後の日本国憲法は、
全世界で、最もロマンティックな憲法ですが、
大日本帝国憲法が、
そもそも、ロマン主義を標榜していたのに、
戦争に負けて、余計に、ロマンティックになりました。
あほです。
日本国政府が、科学技術立国を掲げたので、
日本経済は、バブルになり、破綻しました。
何が間違っていたかは、言わずと知れています。
ロマン主義の間違いを、
コンピュータは、はっきりと指摘しています。
日本は、家電製品の製造販売が、得意で、
テレビや冷蔵庫や洗濯機のある生活を、
世界中に普及した張本人なのに、
電卓を売りまくって、高度経済成長を果たして、
なぜ、コンピュータに負けたのかを、理解できません。
コンピュータは、はっきりと言っているのに。
事実や精神や自然は、定義された規則性である。
変更されない定義は、ない。
科学技術が、文化文明であるのでなく、
自然や、自然の摂理などの、定義された規則性が、
文化文明です。
事実や精神などの、知覚の成り立ちを知らなければ、
自然や科学の成り立ちも、理解できません。
脳みそは、樹状突起の枝分かれがあるだけです。
枝分かれは、算盤(そろばん)の珠(たま)と、同じです。
接着剤で固められた算盤の珠が、記憶の内容を表わすのは、
算盤の珠の位置が、数を意味するのと、同じですから、
翻訳すれば、言葉になると、簡単にわかります。
でも、珠を動かすことが出来るから、算盤は、役に立ちます。
接着剤で固められた算盤なんか、計算できません。
枝分かれの組合わせを、変更して、
違う道筋を選ぶ手順を、日本人は理解できません。
古代ギリシャから、ヨーロッパ人は、それを考えていたのに、
日本の権力は、刑事訴訟や精神医療のように、猿に近い。
自然の摂理と言われる変更不能の規則性が、
個人の知覚から独立して、
最初から終わりまで、宇宙にあると、
最初から終わりまで、宇宙にあると、
日本人は思っています。
科学主義や唯物論や社会主義などの、
ロマン主義そのものです。
学校の教科書に書いて、子供に教えているんだから、
韓国朝鮮や中国と同じです。
従軍慰安婦に南京大虐殺。
歴史の真実であると、
教科書に書いて、教えています、あっちは。
世界中が、韓国朝鮮や中国の味方になり、
いくら、捏っち上げだと、日本人が抗議しても、
世界は、言うことを聞きません。
従軍慰安婦や南京大虐殺の証拠は、全部捏造です。
自然の摂理や、科学の法則も、捏造に決まっているのに、
日本人には、それがわかりません。
捏造でなければ、何を根拠に、
だれが、そんなものを作るのですか。
みんな、個人の知覚を根拠に、作るんですよ。
自然や科学の規則性は、
こういう風にして、個人の遺伝形質から、
殺し合いにより、作られました。
その規則性を、みんなに普及するのを、権力と言います。
そういう風に、小学1年生に、教えなければいけません。
わたしは、小学2年生の時に、疑問に思いましたし、
論理能力は、遅くとも1才までに完成すると、
言われています。
生まれた時から、
事実や自然などの、公共の知覚や規則性は、
喧嘩や殺し合いや権力闘争の結果であり、
文化そのものであると、
赤ちゃんに教えて、育てるのが、正しい。
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