大阪の鶴見緑地に植わっていて、名札が付いていましたが、
学名が書かれていません。
ネットで調べると、Cerasus ×parvifolia ‘Fuyu-zakura’と、
表記されているのも、あります。
冬桜は、Cerasus parvifolia(小葉桜 コバザクラ)と、
他の種(しゅ)との、雑種であると、学名は言っています。
母親はコバザクラに違いなく、
父親は無記名ですので、わかりません。
変種や品種でなく、
コバザクラの遺伝的特徴を逸脱していますから、雑種です。
変種と品種は、自然発生的か人為的かの、違いですが、
いずれも、親の種(しゅ)の範囲内の、
特定の遺伝形質が、固定したものです。
こういう分類の仕方は、
生まれつきの論理法則の教条と、同じ要領ですが、
論理法則には、
生まれつきに変更不能な知覚の仕方という根拠があります。
知覚の仕方についての、個人的な遺伝形質の組合わせが、
論理法則の教条ですが、
それとは別に、たくさんの人に共通の論理法則があり、
たくさんの人の遺伝形質の組合わせを、
公共の論理法則として、
生まれつきに、そうでない人を殺す方法が、
刑事訴訟や精神医療などの、
各個人を選択的に間引くための、権力の行使です。
わたしたちは、生まれつきの知覚の規定により、
自分で独自に分類して、植物を見るのでなければ、
みんなの分類として学んだ基準により、
文化的に植物を見なければ、仕方ありません。
いずれかでなければ、何も見えない。
端的には、生まれつきの規定を、適用するのでなければ、
社会的に習得した規定を適用しなければ、知覚できない。
知覚するとは、何らかの判断の基準を、適用することであり、
何の基準も、適用されない知覚は、ありません。
特定の判断に偏(かたよ)らない知覚は、ありませんから、
偏見でない裁判や医療や科学技術も、ありません。
何かを、法律違反として、強制的に処罰したり、
何かを、病気として、強制的に治療したりするのは、
意見の違いが、すぐにわかりますが、
何を科学技術として評価するかが、違えば、
個人や社会の、何が異なるかを、想像できない人は、
知的障害です。
宗教を信じる人は、人により判断が異なることを、
理解できません。
科学技術と言われる特定の判断と、異なる基準を、
現代日本人の多くは、想像もできません。
明治維新の錦絵には、
文明開化の東京の華やかさを、伝えるために、
洋装の軍隊や女性や、蒸気機関車などが描かれました。
機関車の構造が、よくわかる絵もあれば、
車輪の付いた箱に、煙の出る煙突だけの、絵もあります。
原理を理解できない人には、
動力の発生源と伝達方法が、見えませんから、
描けません。
現代の幼児も、蒸気機関車を見たことがないのは、
幕末の絵師と、同じです。
「お湯を沸かして、出て来る湯気を、
外に漏れないように、器の中に閉じ込めると、
もの凄い力で、外に出ようとするから、
その力で、棒を動かして、車輪を動かすんだよ」と、
教えてあげれば、現代の幼児でも、
わかる子は、瞬時にわかりますし、
わからない大人は、一生かかっても、わかりません。
蒸気機関の仕組みを、瞬時に知った幼児は、
機関車を見て、どこで湯を沸かして、
動力が、どこを伝わるのかと、
とても気になりますから、その仕組が見えますし、
絵心があれば、絵に描き留めようとします。
わからない大人は、一生かかっても、
蒸気機関や動力装置の仕組みが、見えませんから、
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudi)のように、
非科学的な絵を描き、
摩訶不思議な才能を発揮するかも知れません。
見えるか、見えないかの違いは、
色盲の遺伝形質の違いだけでなく、
遺伝的な素質の組合わせが、知覚の仕組みとなり、
個人的な論理法則の教条を、形成しています。
遺伝形質の組合わせは、
人それぞれに皆、違いますから、
他人と同じ知覚の内容や、論理法則の教条は、
ありません。
色盲の遺伝子の有無を、
知能の優劣と解釈する人は、頭が悪い。
わたしたちの知覚や論理は、
遺伝形質の組合わせにより、成り立っているだけです。
一卵性双生児なら、遺伝的素質は同じと、思う人は、賢くない。
知覚する人と、しない人や、
論理法則の教条としている人や、していない人がいるのですから、
特定の判断について、
自分と同じ知覚や論理法則の人だけが、徒党を組み、
間違いないと、判断するのは、政治にすぎません。
すべての人に共通の、論理法則の教条を、
まるで、法律を決めるように、
特定の人たちだけが、協議して、決めたとしても、
その教条の公共性に、正当な根拠があるとは、思えません。
自分たちの都合で、談合して、決めただけです。
それにもかかわらずに、そのように決められた科学の規則性が、
確かに役に立つのは、
鉄砲や黒船や原爆のように、敵対者を殺したからか、
それとも、だれからも異議の出ない規則性が、選択されたからか、
あるいは、第三の理由があるのかを、わたしは、書いています。
文化的な共通点が、抽出されたのでないかと、
疑われます。
生まれつきの、変更不能な遺伝的素質のほかに、
文化的に習得された社会慣習が、
個人の知覚や論理法則を、
果肉のように包んでいる可能性が、高い。
フユザクラは、ほんとうに、雑種なのでしょうか。
科学技術の実証は、
個人の知覚を経由しなければ、成り立ちませんが、
個人の知覚の内容は、他人に伝えられません。
コミュニケーションのための、
言葉や写真などのメディアの表現を、
他人に伝えることが出来るだけです。
わたしたちは、フユザクラの知覚を、
他人と共有しているのでなく、
メディアの表現を、共有しているにすぎないのなら、
他人と共有される知覚の対象の事実は、
メディアの表現であると、言ったほうが、簡潔です。
事実は、表現であると。
個人的に知覚された事実を、
他人は検証できませんから、
遺伝形質の組合わせと、
言ったほうが良いかも知れません。
わたしたちは、それぞれ個人の遺伝形質を知覚して、
フユザクラは雑種であるとの、表現を、
他人と共有しています。
フユザクラは、雑種としたほうが、便利でしょうか。
フユザクラのゲノムを解析する前に、
自分のゲノムを、解析すべきでしょうか。
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