三浦半島の、典型的な風景ですが、
あと30年も、保(も)つとは、思えません。
海岸段丘の上の、斜面林と畑が、特徴ですが、
別世界に来たような、見慣れない気持ちになります。
バスを降りると、360度、この光景です。
海食崖の上の、丘陵ですから、
地平線とは、また違います。
谷と尾根の間の、急斜面が、
細長い樹林として、残っていますが、
あたり一面が、なだらかな畑に、なりました。
今頃は、三浦大根ばかりで、のんびりしています。
畑の中の、農道を下(おり)ると、
すぐに、岩礁の海岸に、出ます。
大根の根本(ねもと)を、ひょいと見ると、
青首でなく、紅時雨(べにしぐれ)や紅化粧などの、
赤大根でした。
こんなのは、売れないと、思うけれど…
*** ***
みんなと一緒の、映画を見ている、と言えば、
誤解されるかも、知れません。
生まれつきの素質と言われるマルペケのプログラムが、
他人や他の生物の、それと、同じか違うかを、
わたしたちは、判断しているからです。
他人と、マルペケが同じであれば、
人それぞれの、心のスクリーンに映った映画の中身が、
何であっても、同じ映画であると、判断されますから、
具体的な映画の中身は、妄想なのかしら。
空間や時間と言われるような、
個体特有の具体的な映画の中身が、
それぞれの個体の、脳の中で作られますが、
生まれつきの素質の、マルペケが同じでしたら、
これとあれは、同じであるけれど、
場所が違うとか、時間が違うとかと、判断されます。
無数の、特定の空間と時間が、ありますから、
人それぞれの脳みそが、
勝手に、具体的な映画の中身を創作しても、
自分の見た映画と、他人の見た映画は、同じであると、
納得できます。
空間や時間が違っていても、
これとあれは、同じであると、
個人の脳が、判断するのは、
生まれつきの素質と言われるプログラムのマルペケが、
同じだからです。
それでしたら、どれほど具体的に違っていても、
同じであると、言うことができますし、
どれほど似ていても、違うと、
拒否することができます。
ひとえに、生まれつきの素質のマルペケを、
比べているだけですから、ようするに、
お釈迦さんやイエスキリストの時代からの、
血統や遺伝的素質や神様の、問題にすぎません。
あらすじと、言いますが、
論理能力が低ければ、あらすじを理解できないように、
生まれつきの素質のマルペケを、比較できません。
反対に、
時間や空間により、特定された具体的な事実は、
すけこましの手練手管(てれんてくだ)でないかと、
疑われたにもかかわらずに、その能力が発達すると、
絵画や言語などの、文化的な通信だけでなく、
ビデオやボイスレコーダや、
コンピュータやインターネットなどの、科学技術も
まやかしを信奉する呪術であるとは、
言い難(がた)くなりました。
事実や科学技術は、もはや迷信でないと。
事実を知覚する仕組みは、動物だけでなく、
生物の始めから受け継がれた論理法則のような文化が、
生物の体と言われる物を、純化して来ましたので、
生殖や成長の、生まれつきのプログラムの中から、
事実や科学技術などの、
特定の流行文化の、すけこましやまやかしに、
便利なものが、生き残りました。
免疫のように、即物的に自他を識別する仕組みは、
廃(すた)れて行くかも、知れません。
お釈迦さんやアリストテレスや
イエスキリストの考え方のような、性自認の発想は、
時代錯誤のような、気がして、なりません。
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