アキニレ 1974 判断の組み合わせを、瞬時に一覧する

秋の初めに、花が咲き、
団扇(うちわ)のような、薄い円盤状の果実が、
種(たね)と一緒に飛んで行けば、落葉します。
 
秋楡(あきにれ)の樹皮は、
ぼろぼろと、5cmぐらいの細かさに、
ひとりでに、剥(は)がれ落ちますから、
春楡(はるにれ)や欅(けやき)などの、
他のニレ科(Ulmaceae)の樹木と、
見間違うことは、ありません。
 
中国大陸から西日本にかけての、
暖かい地方の雑木(ぞうき)ですが、
樹形の線が細く、落ち葉の総量が多いので、
庭に植える人は、少ない。
 
     ***          *** 
 
人それぞれに、生まれつきの変更不能な論理能力って、
判断の組み合わせを、整理整頓できる量に、
ほぼ一致します。
 
マルペケの判断が、枝分かれをしますから、
組み合わせの数は、すぐに1億や1兆通りを、
超えてしまいます。
 
整理整頓できる組み合わせの数が、
人それぞれに決まっているのは、
必ずしも、長い時間の記憶力によるとは、限りません。
 
筆記算のように、ノートに記録しても、
人それぞれの、能力の量を超えると、
整理整頓ができなくなるのではと、疑われます。
 
たとえ、受験用に、問題の解き方を丸覚えしても、
全体の分類の要領を、一覧できませんので、
杓子定規の教条を、繰り返す判断しか、できません。
 
判断の枝分かれは、
現実に流行している論理の、着目点のほかにも、
無数の可能性がありますので、
可能な判断の組み合わせは、いつも無限です。
 
実際には、ごく単純な、流行の論理だけでも、
その判断の組み合わせは、膨大ですので、
ほとんどの人は、組み合わせの全体を、
一覧できません。
 
たぶん、10通りぐらいの組み合わせになると、
頭の中で、シミュレートできませんので、
膨大な組み合わせを、想像することは、不可能です。
 
ましてや、現実に流通している論理でなく、
可能な判断の着目点を、
あれこれと組み合わせる能力は、皆無です。
 
何通りの組み合わせを、
頭の中で、シミュレートできるかは、
論理能力と同じですが、
一瞬のうちに、想像できなければ、
筆記算のように、ノートに書き留めても、
全体を一覧できる能力が、
培(つちか)われないのかも、知れません。
 
人間と猿の差が出ている、と言えば、怒られますが、
ほんとうです。
 
論理能力でなく、空間把握能力に喩えれば、
すぐにわかりますが、
筆記や算盤(そろばん)やコンピュータなどを、
使っても、
能力の低い人の能力は、伸びません。
 
空間把握能力って、一瞬のうちに実行されなければ、
立体的でなかったり、狭かったり、暗かったり、
変化しなかったりしますので、
能力の低い人の知覚の中身は、高い人よりも、
平面的で単調です。
 
どうして、道具や機械により、
肩代わりできないのかって、よくわかりませんが、
一瞬のうちに、シミュレートできなければ、
けっして、こつこつと積み重ねられない能力って、
たくさんあります。
 
何トンもの、重い石ころを、機械で持ち上げるのは、
生まれつきに人間にない筋肉の力を、
機械が肩代わりしていますが、論理能力のせいです。
けっして、
筋肉の能力に、積み重ねの可能性があるのでは、ない。
 
論理能力だけが、他の能力の、分割と積み重ねを、
可能にするのであれば、
論理能力が低ければ、万事休すです。
 
一瞬のうちに、わからなければ、
たぶん、いくら考えて、工夫を凝らしても、
永久に、わからないだろうって、
わたしは、小学高学年の頃に、疑い始めました。
 
どうして、筆記算や算盤(そろばん)や
ショベルカーやコンピュータのように、
ちょっとずつ、脳の外に記録して、
積み重ねて行く努力や工夫が、通用しないのかしら。
 
もしも、それができるなら、
一瞬のうちに、10通りの判断の組み合わせしか、
思い浮かばない人でも、一生懸命に努力すれば、
1兆通りの組み合わせを、理解することが、
できるようになるはずです。
 
実際には、努力が報われないって、
経験的にわかります。
 
全体を一覧する直感能力って、見当識と言われますが、
分割して積み重ねる努力が、通用しないのは、
有効時間が、一瞬しかないような、
脳の機能を、使っているからです。
 
代表的なのは、空間や時間による知覚です。
一瞬のうちに、空間的に見えなければ、
たとえ、コンピュータを使い、
情報を分析して演算しても、
空間的な生活を獲得することは、できません。
 
時間も、そう。
時間の順番に、物事(ものごと)を並べるために、
1日も2日も、かかっていたのでは、
次々に連なっている時間による生活を、
諦めたほうが、良い。
 
論理は、
筋肉の能力を、機械に肩代わりさせるることが、
できますが、
論理の能力を、ノートや算盤(そろばん)や
コンピュータに、
肩代わりさせられないのかしら。
 
次々に空間や時間が、移り変わるように、
一瞬のうちに、わからなければ、
だんだんと処理が遅れて、置いてけぼりにされるのは、
必至です。
 
判断の組み合わせって、次々に移り変わりますから、
一瞬のうちに、わからなければ、
差が開く一方になります。
 
統合失調症になりやすい人の能力って、
一瞬のうちに処理されるはずの、
1億や1兆通りの、組み合わせを、
一瞬のうちに理解できません。
 
せいぜい10通りぐらいしか、
一瞬のうちに、思い浮かびません。
世間には、
100通りの人もいれば、1000通りの人もいます。
 
1兆通りを理解できるが、
一瞬でなく、10秒くらいも掛かる人を、
今のところ、わたしは、見たことがありませんから、
たぶん、時間の掛かりそうな人は、
一瞬のうちに理解できる組み合わせの数を、
少なくしているはずです。
 
一瞬であることが、動かせない条件なの。
 
チンパンジーでも、3通りぐらいは、
わかるかも知れません。
世間一般の99%の人は、
たぶん、10通り未満しか、わかりません。
 
1兆通りもある判断の組み合わせを、
10通り未満に割愛したのでは、
裁判官の判決文の論理のように、世も末ですが、
無数の判断の組み合わせを、1兆通りに割愛するのも、
五十歩百歩のような気がしますから、
何をか言わんやです。
 
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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