東京よりも暖かければ、
放ったらかしでも、咲きますが、
我が家では、20年ぐらいで、勢いが衰え、
今や、息絶え絶えです。
これは、公園の元気な瑠璃茉莉(るりまつり)。
株分けをして、
根を整理してあげなければ、いけないのかも、
放ったらかしと、言っても、
自然には、日本原産の雑草に、負けますし、
一定範囲の外に、越境すれば、
根や茎を、剪定しないと、庭が潰(つぶ)れます。
それなら、一定範囲の内側も、
手入れしなければ、いけませんが、
20年も経つと、飽きますから、
勝手に衰えてくれて、せいせいしています。
年寄りになれば、早く死んでくれと、期待されるのは、
人間も同じですが、
医療は、年寄りや病人を、早く処分する意図が、
丸分かりなのに、
どうして、精神の病気の人たちは、
精神科医を信じるのかしら。
麻薬で、いい気持ちになれば、
性転換よりも、楽ちんですが、
適当に暴れたほうが、気晴らしになる?
瑠璃茉莉は、初夏から咲いていますが、
真夏はお休みで、秋に、また元気になり、
冬は、葉が落ちます。
役所の管理している公園の、
小さな花木は、頻繁に入れ替わるでしょう。
そうでなければ、予算を消化できません。
*** ***
論理能力が低いと、
複雑なあらすじを、理解できません。
判断の組み合わせの数が、一定量を超えると、
理解不能になるのなら、
あらすじを整理して、判断を少なくしなければ、
仕方ありません。
生垣にする植物を、剪定すると、
かえって、たくさんの枝が、芽吹きますが、
松や黐(もちのき)などは、
さほど芽吹きが、良くありませんから、
剪定されると、枝振りが変わります。
たくさんの枝分かれの、分岐点があるのに、
本人は、剪定されたままに、手も足も出ません。
論理能力の低い人は、
判断のあらすじを、理解しようとしても、
人為的に剪定された流行文化の通りにしか、
判断の組み合わせを、再現することができません。
世間一般のほとんどの人は、
自分の経験と、同じであるか否かを、
正しい判断であるか、間違った判断であるかと、
評価しているだけです。
複雑な話が通じませんから、情報を伝えられません。
マルペケの判断の数が、少なくなければ、
理解できません。
伝える方法がないのは、言葉が違うからでなく、
判断の組み合わせの容量が、小さいからって、
どうしようもないのかしら。
科学技術のように、
予想した通りの結果を、実際に示しても、
そんな結果は、欲しくないと、言います。
予想通り、ということが、大切なのに…
予想通りの結果が出たから、
他の推論も間違いない、と言いたかったのに、
なんで、この結果と、他の推論に、
同じ信頼性があるのかと、文句を言われます。
美味(おい)しいものしか、要(い)らん。
言うことを聞かん奴は、撃ち殺すぞ、と言い、
実際に、広島や長崎に、原爆を落としてやらなければ、
言うことを聞きません。
こうなれば、こうなる、という科学的な推論のほうが、
神風や皇国や陸軍よりも、正しい、と言っても、
論理能力のない人たちに、通じるわけがない。
チョコレートくれ。
メリケン粉くれ。
性転換くれ。
GID(性同一性障害)の人たちは、
脳に、生まれつきの、心の性別の自覚を、
決定する部分があり、
生まれた後には、変更不能であると、言います。
GIDの人たちの、その部分の、大きさや機能が、
男女逆転していると、ある学術論文は、主張します。
その論文が、嘘や間違いであったら、
どうする積(つ)もりなのかしら。
心の性別の自覚を、司(つかさど)る脳の部分って、
前頭葉でないのかしら。
その自覚の内容が、生まれつきに変更不能なのは、
統合失調症のように、
変更不能になり易い生まれつきの素質のせいで、
ないのかしら。
脳の奥のほうの、特定の神経核の性差が、
GIDや同性愛者では、男女逆転している、
とする論文には、
捏造されたデータでないと、証明する工夫が、
皆無です。
体と反対の性別の、思考や生活に、浸っていると、
特定の神経核は、発達や萎縮が、顕著でないのかしら。
GIDの人たちは、脳の奥のほうの神経核は、
生まれた後に変化しない、と言いますが、
そんな証拠は、ありません。
癌のせいで、反対の性別の性ホルモンを使用しても、
変化しないそうですが、
癌の治療のためでしたら、今までもよりも、一層に、
生まれつきの性別の、思考や生活にこだわり、
性的な気持ちが、変わらないように、
心掛ける人が、多いはずです。
割礼の失敗のせいで、男性器を失った男の子が、
性転換手術と女性ホルモン投与により、
女の子として育てられましたが、
どうしても、自分のことを、女と思えずに、
性転換した事実を、打ち明けられた後に、
男性に戻りましたが、結局、自殺しました。
このことから、心の性別の自覚は、先天的であると、
GID(性同一性障害)の人たちは、結論しますが、
心の性別の自覚でなくても、
生まれつきの体質や性質や境遇や、
生まれた後の経験などと、男女の流行文化とが、
しっくりと行けば、幸いですが、
あまりに違っていれば、適応に難儀するので
ないのかしら。
生まれつきの心の性質の中にも、
変更困難や不能なものが、一杯ありますから、
性別の文化と、うまく行くとは、限りません。
でも、変更困難や不能なものが、
生まれつきの心の性質の中の、心の性別の自覚である、
とするのは、早計です。
文化のほうが、個人には変更困難なので、
個人の性質と、性別の文化とが、
しっくりと行かない場合もある、という意味なのに…
文化は、みんなのものですから、
個人の力で、そう簡単に、変更できないでしょう?
性別の文化も、個人には、変更困難です。
それが、どうして、
変更困難な個人のほうの性質としての、
心の性別の自覚に、すり替わるのかしら。
性別の文化が変更困難であるから、と言って、
それに適応できない個人の心に、
生まれつきに変更不能な、心の性別の自覚が
なければいけないと、
文学的に対応させる必要は、何もありません。
GID(性同一性障害)よりも、
発達障害から、癲癇や鬱病や統合失調症などを経て、
認知障害に至るような、
一般的な精神の病気の道筋の一つを、
示しているように、わたしには思えます。
自分と社会が、上手(うま)く行かないと、
変更困難な社会の規則性が、
自分の変更不能な規則性に、見えて来る…
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