栃(とち)の木ですが、
青空のほうが、奇麗でした。
秋が、すんなりと進み、気持ち良い。
鬼怒川が、氾濫したそうですが、農家の子孫なら、
生まれ育った土地に、家を建てるでしょう。
所有地のほうが、安上がりですし、馴染みもあるし…
先祖代々の一族が、そこに築いた人脈でなければ、
生きて行けない。
よそ者が、あそこに、
宅地や建売住宅を、買うのは、奇妙です。
地図を見れば、
鬼怒川と小貝(こかい)川に、挟まれて、
常総市役所は、
それぞれから、1kmぐらいの距離しか、ありません。
堤防があっても、決壊するかも知れないと、
覚悟して置いたほうが、良かったのですが、
職場の近くに、転居せざるを得なかった人も、
少なくなかったでしょう。
東日本大震災の時も、そうでした。
過去の津波の高さが、わかっているに、
そこに、家を建てる度胸は、なかなかと言うよりも、
いわゆる裸一貫でなければ、
暮らせない定めの、社会の底辺です。
性別が違うと言い、性転換をするぐらいの、
行き当たりばったりの顛末(てんまつ)でなければ、
生きて行けません。
小学高学年から中学生の頃に、
わたしが暮らしていた大阪の土地も、
標高が低く、浸水しました。
台風の大雨でしたが、
やはり、畳が浮き上がったので、気づきました。
机と机の間に、畳を渡して、
箪笥(たんす)の引き出しを、全部、載せました。
腰まで水に浸かりながら、布団を濡らさないように、
押入れの上の段に、生活道具を詰め込みました。
翌日の朝に、膝ぐらいまで、水が引きましたが、
父は、押入れの中で寝ました。
女子供(おんなこども)は、
お風呂屋さんの二階に、避難しました。
水が引いた後に、
抜けた壁を、家族全員で塗り直しましたが
救援物資や炊き出しや避難所などの、
公的な援助は、一切ありませんでした。
1円も貰(もら)わなかったし、
おにぎり一つも、くれませんでした。
当時は、それが普通でしたから、
誰も、期待していません。
誰も、文句を言いませんでした。
どうせ、戦争に負けて、
進駐軍に占領されていましたから、
誰に、何を言えと、言うのかしら。
日本人は、全員が銃殺されても、
文句を言えない立場でした。
殺し合いに負けたのですから、殺されて当然です。
反対に、勝っていたら、
家族を殺した奴らを、殺さなければ、
気持ちが収まりません。
パンパンだけは、銃殺を免(まぬか)れるだろうと、
日本人は想像していました。
お父さんがGI(ジーアイ)で、
お母さんがパンパンだったら、
良かったのにと、子供は言いましたから、
親は情けなかった。
今でも、性転換をする人たちは、
GID(性同一性障害)をカミングアウトして、
みんなを見返してやると、言いますから、
是非もない。
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