平地の榛(はん)の木と、似たようなものですから、
雪解け早々に、受粉しているはずです。
雪解けの湿気が、霧や雲になり、
雄花や雌花が、いつも、水滴に覆われていると、
花粉が、飛びそうにありません。
花の写真を、このブログに貼り付けていると、
手鏡の先生のように、
婦人用下着の花柄(はながら)を、
追いかけている気分になります。
高山植物の咲き競う3000mの稜線は、
女物の花柄パンツに似ている、と言うと、
怒られますが、
千利休は、お茶を嗜(たしな)みながら、
女便所の汲取口に植える植物を、思案していました。
茶室に飾る茶花(ちゃばな)も、
パンツのブリント柄(がら)のようなものです。
赤いのが雌花序で、松ぼっくりよりも小さな、
毬果(きゅうか)になります。
垂れ下がっている雄花序は、すでに御用済みです。
わたしは、オオバヤシャブシとミヤマハンノキが、
生殖できるのでないかと、疑問です。
深山や高山と、平地とでは、
季節の進み方に、ずれがあるので、
花の咲く時期が異なり、生殖の機会がないだけで、
平地のオオバヤシャブシと、
高山のミヤマハンノキの違いは、
個体差にすぎないのでないかと。
ミヤマハンノキは、ハンノキの類よりも、
ヤシャブシの類に、似ています。
いずれも、
カバノキ科Betulaceaeハンノキ属Alnusです。
*** ***
論理が、なぜ、そんなに大切かって、
言うまでもなく、
わたしたちの生活は、すべて、何々ならば、これこれ、
という屁理屈で、成り立っているからです。
論理のせいで、
人を殺しても、正当と言われたり、
憎まれて、死刑にされたりしますが、
論理法則に、善悪や愛憎が、含まれていないのに、
任意の価値が、
自然や社会の必然のように、確信されるのは、
論理法則と言われる文化的教条の、
項目や組み合わせが、
価値観により、知覚の形式を、規定するだけでなく、
自分と一緒でない奴を、
まるで悪魔のように、客観的に存在するとして、
悪を憎んで他人を殺す気持ちを、
正当化したからです。
客観的って、
ようするに、みんなと一緒、という意味ですから、
これこれならば、これこれ、という論理法則ほど、
あほくさい教条は、ありません。
コンピュータの数学的な判断って、
多数の横暴の典型なのに、
頭が悪ければ、自然の摂理のように、感じられます。
こいつを、1才くらいまでに、習得しなければ、
言葉を習得できないのと、同じように、
みんなとのコミュニケーションに、不自由します。
習得すれば、知覚や感情の、みんなと一緒の形式が、
変更不能になりますから、親の権力のように、
子供には、厄介な代物(しろもの)になります。
うちの父は、IQ70でしたので、困りました。
科学技術が、その典型と言えます。
あほの典型。
気持ち良く暮らせるのは、
科学技術のお陰ですが、
気持ち悪いのも、そうなのに…
大阪教育大学の宅間守や、
オウムの麻原彰晃君を、
憎んで殺すだけでなく、
彼らも、小学生や地下鉄の乗客を、
盛大に殺したのは、
科学技術以前に、論理のせいでした。
罪のない人を殺せば、死刑になるのは、
当たり前って、科学技術と同じように、
論理の創り出した迷信に、すぎませんが、
具体的な意見を述べる論理だけでなく、
論理法則が、
そもそも、ありとあらゆる迷信の、
親分のようなものです。
宗教のようなものかしら。
論理法則に、
知覚や感情を、規定する正当性が、
あるわけも、ないのに。
数学や科学技術の確信って、
宗教家の振り撒(ま)く迷信と、
五十歩百歩です。
論理を使うので、人間は賢い、
と自賛しますが、
鉄砲を使えば、ゴリラやライオンを、
いちころに殺せますから、
確かに賢い。
ゴリラやライオンは、あほですから、
簡単に殺されます。
そうは、なかなか殺されないウイルスって、
相当に賢いかも、知れません。
北米のインディアンや、
南米のインカ帝国の住民も、そうでした。
西欧人を、
皮膚が白いから、神の使いであると、
インカの人たちは、確信しましました。
現代日本の常識と、同じですから、
鉄砲や黒船を使い、
いちころに殺してやれば、
簡単に神様になれます。
神様は、ご先祖さまに決まっていますから、
変(へん)ですけれど…
人間の中でも、論理能力の差が、歴然としているのは、
中学校の、国語の読解力問題や、数学の初歩の問題を、
解いてもらえば、すぐにわかります。
中学生と成人の成績は、同じですから、
論理能力は、たぶん、生まれつきに決まっていて、
生まれた後には、いくら勉強をしても、
向上しませんが、
1才ぐらいまでの、まだ言葉が使えずに、
大人と同じ物が、見えていない頃に、
論理能力の計測は、困難かも知れません。
その頃に、だいたい、将来の精神の病気や犯罪などの、
みんなに虐(いじ)められて、間引かれる素質が、
わかります。
論理能力が低いのと、
みんなと一緒の、体の感覚を、習得できないのとは、
もしかしたら、同じかも知れません。
19世紀の初めに、
電信が実用化される頃までに、
発見された自然科学の規則性は、
ほとんど全部が、だれに教えられなくても、
幼児のころに、
ひとりでに習得していた感覚を、
数式に表現しただけでした。
瓶の中に、こびりついた漬物を
取り出すには、
瓶の口の方向に瓶を動かして、
急に止めれば、
漬物が、瓶の口から飛び出て来るって、
2才の幼児でも、ひとりでに気づきます。
寒い時に、
新聞紙を、衣服の下に敷き込めば、
暖かいって、幼稚園児でも、知っています。
新聞紙だけでなく、
スポンジや毛糸のように、
気泡をたくさん含んだものは、
熱が伝わりにくいって、
ひとりでに理解します。
真夏に、
アルミサッシの内側の、部屋の中に、
ブラインドやカーテンを閉めて、
日除けとするよりも、
アルミサッシの外側に、
日除けの工夫をしなければ、
部屋の中を、涼しくする効果が
少ないって、子供でも知っています。
空気中を、
声は、それほど遠くまで、届かないけれど、
水中の振動は、もっと聞こえやすく、
密度の高い固体でしたら、
地球の裏側まで、伝わるって、
感覚として、幼児は、すでに知っています。
お箸の太い方を持ち、
冷えた焼き魚を、裂こうとしても、
力が入りませんが、
細い方の先端近くを持てば、
力を入れて、お箸を使うことができます。
足が短ければ、急傾斜の登攀に強いけれど、
長くなければ、平坦地の長距離歩行に、
向いていないって、
幼児でも、知っています。
だれに教えられなくても、
頭が良ければ、
ひとりでに気づいている事が、
19世紀初頭の、電信の実用化の頃までの、
自然科学の成果の、ほとんどでした。
この能力が、論理能力と、ほとんど同じですから、
自然科学が、
その種類の素質を、識別するための、
免疫機能の一種であると、わかります。
自分と同じ奴を見つけて、違う奴を殺すための、
敵味方識別装置なの、論理って。
植物や動物は、化学物質を出して、
自分と違う奴を、殺しますけれど、
同じ素質の奴は、へっちゃらですから、
乳幼児の頃に、ひとりでにわかる能力を見れば、
将来に、精神の病気や犯罪などと言われて、
みんなに憎まれて、間引かれて行く奴を、
識別できます。
そうして、GID(性同一性障害)を見つけて、
子孫を残さないように、
生殖機能を破壊する性転換医療って、
発達障害者を、鉄砲で撃ち殺しているのと、
似たようなものです。
たとえ宅間守君が、処刑して欲しいと望んでも、
お医者さんは、そう簡単に、殺しては行けません。
死ねば楽になると言って、誘惑するように、
インディアンやインカの住民を、
片っ端から撃ち殺して、神様と崇められた欧米人は、
可哀想な奴でした。
わたしは、宅間守君や麻原彰晃君を、
死刑にしないのと、同じように、
GIDの人たちに、性転換医療を行なう奴らとは、
一緒になりたくない。
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