日本の、代表的な高山植物ですが、
日本人が、馬面(うまづら)を好むようになったのは、
江戸時代の幕末からです。
鎌倉時代の武士の肖像まで、
馬面を善しと、しましたので、
貴族のような丸顔は、破棄されました。
まるで、19世紀のイギリス人が、
古代ギリシャの彫像を削り、塗料を落として、
純白の大理石に仕上げたのに、似ています。
小学生の頃に、佐久間象山の、写真や肖像画を見て、
ここまでエステティックに、
欧米に追従(ついしょう)しようとする日本人を、
可哀想に思いました。
論理能力が低ければ、判断の根拠がありませんが、
論理法則が、そもそも文化的な教条にすぎないのに、
数学の通りに、科学技術が成り立つのは、
刃物や鉄砲や黒船や原爆などが、
嫌(いや)な奴を殺して、
論理に一致する知覚の素質を、純化したからです。
品種改良をして、ダックスフンドやブルドックを、
作ったのと、同じ要領ですから、
具体的な、顔や体のエステティックを、
取捨選択するように、
生まれつきに変更不能な、論理的な知覚能力を、
純化できると、
アリストテレスの論理学や科学は、予想しました。
彼は、正しいと言われる結果を、作りましたので、
権力を握り、万学の祖と、称(たた)えられています。
エステティックと論理が、一致することを、
多くの人が、実感しているように、
ダックスフンドやブルドックを作ることができるのは、
文化的な教条の通りに、
生まれつきの変更不能な、知覚や感情を、
品種改良して作ることができるのと、
ほとんど同じ意味です。
ダックスフンドやブルドックでなく、
他の品種を作ることもできるように、
論理法則と言われる教条が、
ほかの中身であっても、構いません。
彼の教え子の、アレクサンダー3世が実行したように、
言うことを聞かん奴を、殺すための、鉄の刃物が、
最大の武器でした。
アレクサンダーは、ペルシャの豪族を、
ソグディアナまで、追いかけて行きました。
論理や科学技術が、本懐を遂(と)げましたが、
まるで曽我兄弟の仇討ちを讃(たた)えるように、
現代のわたしたちは、
論理や科学技術を信奉して、止(や)みません。
日本人が、アリストテレスアレクサンダー師弟を、
崇拝するようになったのは、
佐久間象山のお陰ですので、
駒草(こまくさ)を見ると、彼を思い出します。
*** ***
動物は、知覚したことを、記憶してしまいますが、
何を知覚するかは、
赤ちゃんが、大人と同じものを、見ていないように、
文化的に、こっちとあっちを、つないだり、
これとあれを、くっつけたりするための、
規則性を学び、
その通りに知覚することを、実行するようになるから、
1才くらいに、
みんなと同じ物を、見ることができるようになります。
もっとも、赤ちゃんの脳は、
たとえ、一卵性双生児や母親とであっても、
他人と繫がっていませんので、
みんなと同じ物を、見ているか、否(いな)かを、
直接には、だれも知ることが、できません。
わたしたちは、
言葉や動作などの、コミュニケーションにより、
たぶん、みんなと同じ物を、見ていると、類推します。
本人も、そのように類推しますから、
類推の結果が、みんなと同じでしたら、
何を見ていようが、みんなと同じものを見ていると、
結論されるのでないかと、疑われます。
その類推の規則性のことを、論理法則と言いますから、
類推の結果が同じでも、類推の規則性が同じとは、
限りません。
類推の規則性が違っていれば、
たぶん、類推の結果も違って来ますから、
みんなと違っていれば、論理能力が低いと、されます。
みんなが見ている共通の物がないほうが、
知覚の仕組みが、明瞭になり、
共通の物があるとしたほうが、話が複雑になるのに、
科学が、複雑な話を好むのは、
自分と同じ論理法則に、適応しない奴を、
正当に殺すためです。
客観的に、これこれの物がある、とするのは、
みんなと一緒でない判断の奴を、殺して、
正当化するためなの。
善悪や道徳や犯罪や人格などの、
根拠のない価値を、正当とするには、
客観的な物があるとしたほうが、具合が良い。
自分でない物体や、みんなに共通の物体がある、
とすれば、
嫌(いや)な奴を、みんなで虐(いじ)め殺すには、
便利です。
本当に悪魔がいると、信じるようなものです。
そうでなければ、
嫌(いや)な奴を、やっつけるたびに、
自分で自分を殺したと、後悔しないように、
お釈迦さんやキリストのように、
自分はないと思わなければ、いけません。
お腹が減ったら、食べたいし、
歯が痛く、便秘になっただけでも、
死ぬほど苦しいのに、
自分がないとは、到底、思えない…
人は皆、死にますから、そのうちに、だんだんと、
自分の命や体を、惜しいと思わなくなり、
自分はないと、確信するようになるのが、普通なのに…
言葉が、
みんなの流行文化の、共通の産物であるように、
論理法則と言われる教条も、
ほんの少し、息の長い流行文化に、すぎません。
言葉が約束事であるように、
論理法則も、人為的な文化なの。
その通りに、科学技術が知覚されるように、
言葉や論理法則のような、
みんなに共通の、文化的な規則性は、
知覚や感情を、規定することができると、
アリストテレスは、考えました。
論理能力は、
無意識の機能を定義して、制約する能力です。
論理能力の低いやつに、犯罪や気違いや悪徳などの、
文化的な価値をこじつけて、殺すのが、
科学技術の主たる役割です。
精神科医が、科学的であれば、
精神障害者を焼却したナチスドイツと、同じですが、
論理法則の教条や、ロマンティックな医学を
拒否する医療って、成り立つのかしら。
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