雄しべが長く、湾曲しているのが、
未央柳(びようやなぎ, Hypericum monogynum)ですが、
長くても、直線的なのは、
ヒッペリカムカリシナム(Hypericum calycinum)。
雄しべの長いのは、この2種が、広く流布しています。
短いのは、ヒッペリカムヒデコート
(Hypericum patulum cv.Hidcote)を、
よく見かけますが、
花びらが全開せずに、俯(うつむ)き加減に咲くのは、
金糸梅(きんしばい , Hypericum patulum)かも。
*** ***
未央柳(Wèiyāng liǔ)は、
未央宮(びおうきゅう)の柳の、意味ですから、
びようでなく、びおうと、読むべきでしょうが、
植物の名前として、固有名詞が定着すると、
いまさら、勝手に変更するわけにも、行きません。
植物は、もの言わず、
憲法に、生物の名前は、カタカナで書けと、
ありますから。
長安の未央宮は、前漢に作られた劉邦の宮殿です。
いつまで残り、いつ燃えて、いつ再建されたのかを、
わたしは知りません。
同じ場所の、宮殿の名前として、
後々までも、残ったはずです。
平安時代の日本の貴族が、
未央宮を、よく知っていたのは、
紀元前1世紀に書かれた司馬遷の『史記』や、
紀元後1世紀の班固の『漢書』などを、
読んだのでなく、
9世紀の唐の時代の、白楽天の長恨歌を、
読まされたからです。
これを、丸覚えにするだけでなく、
物語の筋を理解するのが、当時の国語の教育でした。
中国語なのに…
長恨歌は、詩のくせに、物語ですから、
叙事詩の名残(なごり)です。
世界中の、たいていの神話は、
歌われたり、文字に書かれたりして、
詩の形で、伝えられていますから、叙事詩なの。
韻(いん)を踏み、音楽的なリズムと抑揚があります。
日本語の抑揚は、
アクセントの強弱によるイントネーションが、
ほとんどですが、
中国語は、日常会話でも、音の高低が、大切ですから、
物語を、文字に記(しる)せば、
歌曲のような叙事詩に、ならざるを得ません。
毛沢東も、たくさんの詩を書きましたし、
訪日した周恩来も、詩を詠(よ)みました。
君子は、詩を詠みながら、
何百万人もの人を、殺さなければいけません。
日本の商人も、千利休のような顔役になると、
大陸の風流を、真似(まね)ましたので、
豊臣秀吉に殺されました。
白居易の長恨歌は、
昔の前漢の武帝の話と、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の話が、
二重写しになっています。
竹田出雲の、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵も、
登場人物の名前を変えて、発表しなければ、
怒られましたし、
ヴェルディのオペラの、仮面舞踏会の、
ウジェーヌ・スクリーブ(Eugène Scribe)の台本も、
18世紀末のスウェーデン国王が、
仮面舞踏会の場で、暗殺された実話を、
イギリスのボストン総督が、アメリカで殺された話に、
翻案されて、発表されました。
知っているはずのない人間が、噂話を纏(まと)めて、
目の前で見たかのように、世間に流布させるのが、
実話や事実のようなものですから、
裁判の判決文と同じです。
法律家には、論理能力がなく、
文学でなければ、判決文を書けるわけがないのに、
ちっとも、詩になっていませんから、
白楽天の長恨歌が、日本に流布したのは、
当たり前でした。
現代の、
新聞社の印刷技術や、放送局のテレビ技術などと、
唐の時代の、
韻を踏む詩作の技術は、よく似ていました。
平安時代の日本にまで、伝わりましたが、
見たことのない嘘や噂(うわさ)を、
事実のように言い触らせば、
怒られて殺されるのに、決まっていましたので、
別の、人や場所や時代の、出来事のように、
歌いました。
でも、現代の流行の話って、何となくわかります。
当て擦(こす)りを、
聞こえよがしに、吹聴しますから、
文学や芸能は、裁判や科学技術のように、悪徳です。
中国の文学は、辞句の全てが、
昔の文学から、借りて来た言葉ですので、
読めば自動的に、
昔の文学作品と、二重写しになります。
前漢の高祖(劉邦)の話として、
伝えられるている言葉を使い、唐の玄宗の話を書けば、
当て擦りも、いいところです。
これで、白楽天が、死刑にならなかったのは、
すでに、玄宗も、過去の人だったからです。
玄宗が死んで、16年後に、白居易が生まれました。
それでも、玄宗の子孫に、殺されないように、
前漢の昔話のように、書き、用心しました。
そもそも、昔の文学の、修辞を踏襲して、
わざと、二重写しになるように、詩を詠むのが、
優れた文学ですから、当たり前です。
ほんとは、文学だけでなく、
言葉は、すべてそうです。
昔の人の作った言葉を、現代人が真似るのですから、
すべての言葉は、昔の意味と、
二重写しになっています。
幾重にも幾重にも、重なっていますから、
コンピュータのプログラムと、似たようなものです。
他人の書いたプログラムを、組み合わせて、
自分のプログラムを、書くでしょう?
プログラムを、どこまで分析しても、全部そう。
他人の作った定義を、組み合わせても、
論理法則が、
コンピュータのハードウェアになっていますので、
たぶん、
CPU(中央演算装置)のようなIC(集積回路)の中身は、
変更不能です。
生物の体も、
他人の作った言葉を、組み合わせて使うように、
化学物質のくっつき方や繋がり方の、
変更不能になったものを、コピーしますから、
融通が効くように、組み合わせるのは、
上手(うま)い詩のような、生物かも知れません。
人間の作った機械と違い、生物を作った論理法則は、
ハードウェアになっていません。
コンピュータや言葉に、事実は必要ないのに
生物の体や知覚の、組み合わせに、
真善美のような価値を、設定するのは、
裁判を見るまでもなく、文学です。
レトリック(rhetoric)なの。
そのことを、論理と言いますが、
これとあれや、こっちとあっちを、
くっつけたり、繋げたりして、定義をしたのに、
融通の効く組み合わせになります。
コンピュータや体や知覚に、
事実や価値を、くっつけたり、繋いだりするから、
論理法則なのですが…
科学技術が役に立つように確信されるのは、
論理のせいなの。
嘘や間違いや噂や迷信や憲法や裁判や、
数学や科学技術や知覚や体などの原因が、
論理法則です。
くっつけたり、つないだりって、
区分けして分類するのと、同じですから、
変更することなの、論理って。
判断は、いくら頑張っても、
みんなと違う判断や、今までと違う判断には、
なりません。
記憶しなければ、
みんなや今までと、同じ判断を、繰り返します。
経験の中身が、変更不能になるんです。
みんなや今までと、違うように判断するには
みんなや今までの判断を、記憶しなければいけません。
丸覚えをすれば、それが変更不能になります。
規則性を発見して、記憶すれば、
その規則が、変更不能になりますが、
おのおの経験には、嘘や間違いの、個性が残ります。
論理法則と言われる変更不能を、避けるには、
自分のための、嘘や間違いが、必要なの。
アリストテレスのような、
論理中心主義の考え方では、
論理法則は、ようするに、
違う物事(ものごと)を、同じであるとして、
くっつけたり、繋いだり、分類したりしますから、
生物は、機械のような綺麗事でなく、
大和武尊(やまとたけるのみこと)の、
草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)のように、
野蛮です。
アレキサンダー3世は、
アリストテレスの生徒でしたが、
大和武尊には、すぐれた先生がいませんでした。
そんなことは、長恨歌に詠まれていませんが、
わたしは、そういうことを想像します。
毛沢東って、詩を作るのが上手く、
たくさんの人を殺しましたから。
玄宗は、長安から四川に、落ち延びる途中に、
諸侯に要求されて、連れていた楊貴妃を殺します。
安禄山の乱の原因の1つが、楊貴妃だったと、
言われてます。
こういう話って、
数学や科学技術や、体や知覚の仕組みと、
幾重にも幾重にも、二重写しになります。
あまりに複雑になると、赤ちゃんでありませんので、
脳の性能が、だめになりますが、概念の数だけ、
レイヤー(Layer)が重なっているのは、
当たり前です。
未央柳を見ると、わたしは、
文化大革命の江青や、ポルポトのカンボジアを、
思い出します。
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