コムギ 1812 感情や論理

なぜか、雑草に埋もれています。
雨ばかりで、小麦も大変ですね。
梅雨までに、収穫したいのですが。
 
いや、ここの小麦は、収穫されるつもりがない。
何のために、育っているのか。
 
病気に、やられているんですけれど、
刈り取って燃やすとか、
土に鋤(す)き込み、水を張るとか、水を流すとか、
土を起こして、空気や太陽に、晒(さら)すとか、
薬を撒(ま)くとか、いろいろあるのに、
どうして、対策をとらずに、放置しているのかしら。
 
精神の病気の人を見ると、そう思います。
 
性転換をする人も、
したいことをする自由な人生って、
つまらないと、思いませんか。
 
後藤君や湯川君は、自由は要らないと、
主張する人生を、選びました。
 
わたしは、そのほうが、
性別違和を訴える人の、治療になると、
思っています。
 
自由なんて、つまらない。
だらだらべったりの、人生は要らん。
 
自然な人生も、お断り。
 
わたしは、
アメリカ合衆国の、インディアンやヒッピーに、
それを伝えました。
インディアン・カジノを、教えたの。
 
作物を育てると、必ず、
虫や病気が、土に住み着きます。
その土地を見捨てないで、
根気よく、農耕を続けるには、
どうしたら良いのかしら。
 
作物を替える、
病気に罹った奴を、根絶やしにする、
病気に罹らない奴だけを、育てる。
 
猿を餌付けすると、
生まれつきの変更不能な、障害や病気が、
激増します。
人間に似ていますから、そう簡単に殺せません。
自分たち同士の、共食いに、任せます。
 
虐(いじ)めや、戦争も、そうですが、
性転換医療も、優生医療と言われます。
 
性転換をした人は、黙っていても、タレ込まれます。
ほとんどは、性転換の仲間が、密告したものと、
推測されます。
 
仲間同士の、足の引っ張り合いは、
アメリカ合衆国の、西部の開拓時代みたいに、
無法地帯です。
 
社会の底辺の人は、
嘘や噂(うわさ)や裏切りや間違いや迷信などを、
権力の口上よりも、固く信じます。
 
権力に負けずに、生きる手段は、
権力が得意でないことを、振り回すことなの。
インディアン・カジノって、
博打(ばくち)ですけれど、
社会の底辺の人のほうが、上手(うま)い。
 
日本でも、パチンコって、北朝鮮の人でしょう?
 
儲ける奴がいれば、捕まえて袋叩きにします。
社会の底辺では、警察を呼ぶ奴が、犯人なの。
 
これこれならば、これこれである、という論理能力の
足らん奴が、社会の底辺に沈みます。
 
言葉や数学や科学などの、論理能力でなく、
目で見て、手で触り、耳で聞いて知る知覚の、
論理能力が、足りません。
感情っていうやつです。
 
        ***          *** 
 
感情は、嘘や間違いや
噂(うわさ)や裏切りや迷信などにより、
成り立っていますので、
正しい感情というのは、ありません。
 
でも、正しいと思う気持ちは、
感情の一種ですので、
正しい論理のように、正しいとされる判断は、
感情的です。
 
当たり前ですが、
論理は、嘘や間違いや噂や迷信などにより、
成り立っていますので、
正しいと思う気持ちを、大切にします。
 
正しい感情がない筈(はず)なのに、
正しいと思う気持ちを、大切にするのは、
合理主義の矛盾ですが、取り柄(え)でもあります。
脳やコンピュータの仕組が、そうですから。
 
     論理のマルペケの判断って、
     こっちのほうが正しいって、
     感情的に湧き起こり、
     変更不能に凝り固まります。
    
     わりと短時間の後に、
     変更可能になりますから、
     変更不能なのか、可能なのか、
     はっきりせいと、怒られます。
 
     時間が必要なの、化学変化には。
     それだけのことですが、
     時間は、逆戻りできませんから、
     なかなかの、上手(うま)い仕組です。
     
わたしは、新聞配達の道筋のように、
ここを曲がって、この家と、教えられたから、
その曲がり角に、マル印を付けて、
定義をするだけです。
 
定義に一致するか、しないかを、
仕分けする判断は、感情ですから、
定義は、感情に格納されているのかしら?
 
それとも曲がり角に、付けられた印が、
定義なのかしら。
 
マルペケの判断を、定義と言うと、怒られますが、
たぶん、曲がり角に、印を付けても、怒られます。
 
     ほんとは、通り過ぎた枝分かれの、
     マルペケの羅列さえ、覚えて置けば、
     道が替わっても、
     その判断の組み合わせは、
     汎用的に使用できます。
 
     道を覚える必要は、ありません。
     判断のマルペケの羅列を、覚えて置けば、
     違う道のことでも、
     他人と、話が通じます。
 
     違う道か、同じ道かって、
     マルペケの、羅列や組み合わせしか、
     照合できませんから、
     経験した判断の羅列だけでなく、
     通らなかった判断の組み合わせを、
     普段から、シミュレートしていれば、
     経験の違う人と、
     コミュニケーションをしても、
     穏やかな気持ちで、居られます。
 
     科学技術の、判断の組み合わせが、
     それです。
 
判断の着目点って、要(い)らないんです。
昔のロマンチックな人たちは、
何に注目して、何を共通点にするかが、
判断には大切であると、考えましたが、
着目点や共通点や概念などって、
脳味噌の中枢神経の仕組には、無用なの。
 
コンピュータと同じで、事実は要らん。 
定義は、概念を作るのでなく、
マルペケの判断の、記憶にすぎません。
羅列なの。
 
何についての判断かって、
何についての部分は、必要ありません。
マルペケの羅列だけで、ことが足ります。
 
どうせ、何についてかを、説明するには、
マルペケを羅列を、提示するしか、
仕方ないでしょう?
判断のマルペケの羅列が、認識の対象なの。
 
言葉や数学や科学技術などは、
知覚の仕組に、依存しています。
 
経験した判断の羅列のほかに、
経験しなかった判断の組み合わせを、
頭の中で、シミュレートするって、
科学の手法ですが、
インドヨーロッパ文化の、論理中心主義では、
当たり前のことです。
 
自動的に行なわれて、自覚していなかった判断を、
あらためて、自覚するようなものです。
 
経験しなかった判断の組み合わせを辿るって、
無意識に行われた判断を、反省するのと、
同じかも知れません。
 
ほんとうは、選択されなかった判断の組み合わせも、
無意識に行われていたと、知れば、
科学技術が、論理的に導かれるのは、当たり前です。
 
他人の記憶と、道が違っていても、
マルペケの羅列が同じなら、ちゃんと話が通じます。
選択されなかった道まで、シミュレートされれば、
科学技術だけでなく、
他人の記憶と、いつも汎用的に、話が通じます。
 
枝分かれの仕方って、
知能や科学技術や精神の病気と、関係が深い。
満遍なく、たくさん枝分かれするほうが、
能力が高い。
 
神経と神経が、くっついていないのは、
何のためなのかしら。
なんで、女がスカートなのかって、
言うまでもありませんが…
 
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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