花壇に、
矮(わい)性の菜の花が、植わっていました。
50cmぐらいかな。
縁(ふち)取りの、石の際(きわ)に、
仏の座(ホトケノザ)が、咲いていました。
これは、野生です。
両方を、一緒に撮ろうとしましたが、
苦労の甲斐(かい)もなく、
どちらも、ピンボケになりました。
性転換も、そう。
性別の病気でなく、
算盤(そろばん)のあちこちを使い、
幾つもの計算を、掛け持ちする機能が、
たぶん、生まれつきに低調です。
記憶のやり繰りが、難しい。
そういう種類の、脳の機能なの。
性別の病気で、ありません。
性転換をすると、
かえって、下手(へた)な人生になります。
一つだけに、専念すると、
他人と比べられても、遜色ありませんが、
性別が間違っていたのでなく、
得手不得手の自覚が、甘かった。
*** ***
普段の生活では、
これこれなら、これこれであると、
論理的な体裁(ていさい)で、ものを言っても、
これこれの言葉の意味が、定義されていませんから、
人それぞれに、自分勝手に解釈せざるを得ません。
日常生活では、定義を明らかにしても、
その通りの物的証拠を、点検する能力が、
だれにもありません。
実際に、悪い結果になれば、
解釈された言葉の意味を、
修正する人もいれば、
実行のほうを、変更する人もいますが、
多くの人は、他人を殺そうと思い、
精神的ストレスを、溜め込みます。
何度も、修正を繰り返せば、
みんなと一緒の意味に近づいたと、
憶測するのは、みんなから、袋叩きに、
遭(あ)わなくなったからです。
悪い結果は、端的に、殺される意味ですから、
犯罪の被害や、犯罪の処罰を受けることなどを、
言います。
他人を殺すのが、バレなければ、良い結果なのかは、
議論があります。
人間の個体は、1人で生きて行けませんので、
他人を殺すのは、悪い結果かも知れません。
犯罪の、被害や受刑は、
いずれも、他人に殺されるようなもので、
その分量や場所などにより、
殺されるとか、傷つけられるとか、
心を傷つけられるとか、財産が減るとかと、
表現されます。
だれにより、なぜ殺されたかって、
文学(ぶんがく)ですから、
他人を使い、自分を殺そうとしたのを、
自覚していないかも、知れません。
殺されるのも、体が病気になって死ぬのも、
同じことです。
日常的な論理の意味は、裁判と同じで、
憲法のような、
他人の思惑(おもわく)が、基準です。
指紋やDNA鑑定やビデオなどの、
物的証拠を揃えても、
流行文化の噂(うわさ)話の類の、
憲法が元ネタですから、
科学技術の目的が、よくわかります。
人殺しの手段なの、論理って。
みんなの判断ですから、
個人の感情よりも、成功率は高い。
数学のできない裁判よりも、
科学技術のほうが、宇宙船を飛ばして、
化学物質を作りますから、
確実に殺せます。
裁判を使っても、科学技術がなければ、
なかなか、人を殺せません。
コーランの通りって、面倒臭いと、
イスラム国の人たちは、言います。
鉄砲で撃ち殺せば、速い。
科学技術は、民主主義や平和主義でありません。
原爆を作れる人って、少なく、
作れない人に較べれば、多勢に無勢ですから、
みんなの判断と、言い難(がた)い。
他人の思惑の、日本国憲法と同じくらいに、
少数の者が、水洗便所のように
垂れ流した噂(うわさ)話なのに、
どうして、科学技術は、憲法と無関係のような、
顔をしているのかしら。
うちのお父さんは、IQ70の知的障害でしたが、
化学会社の創業社長でした。
倒産しかけたので、中学生や高校生のわたしが、
お金の計算をして、
親戚の製鉄会社や造船会社に、くっつけたほうが、
得であると、弾(はじ)き出しました。
お父さんは、親戚の世話になるのが、嫌(いや)で、
独立した会社を、作りました。
頭が変更不能になっているから、知的障害なのに…
嵐山のニホンザルは、九州に放たれて、
木の実が、たくさんあるのに、
みんな、飢え死にしました。
九州出身の一頭だけが、木の実を食べて、
冬でも、満腹でした。
好き嫌(きら)いを言い、食べない奴は、
死にます。
京都の猿は、京都で覚えたことを、
変更できませんでした。
人間も、同じなの。
遺伝子の頃や、胎児の頃や、子供の頃に、
覚えたことを変更できないから、
好き嫌(きら)いが出来て、
個人の人間性や、個性や自由や責任などと、
言い出します。
ニホンザルと、同じです。
遺伝子って、体の一部ですけれど、
変更不能になった判断が、
遺伝子として、伝えられます。
生まれた後に、習得した好き嫌(きら)いにより、
他人を殺しますから、
ブルドックやダックスフンドを作るように、
他人や自分を間引いて、遺伝子を選択します。
品種改良により、純(じゅん)化して、
特定の組み合わせを、選び、
嫌(いや)な奴を、絶滅させます。
免疫と同じですが、好き嫌いの意志に、
自由や責任があると、考えるのは、憲法の思惑です。
敵や味方の殺し合いのように、解釈すれば、
フランス革命みたいに、ロマンチックでしょう?
ほんとは、免疫って、
敵味方の識別や、殺し合いでなく、
ただの組み合わせです。
特定の組み合わせが、変更不能になれば、
特定の物(もの)と、言われますが、
遺伝子のような物が、知覚されるのは、
知覚の組み替えが、できなくなり、
知覚の中身が、
死んだように、変更不能になった、
という意味です。
化学物質が安定する、と言っても、
構いません。
組み合わせを、変更できなくなるのは、
落とし穴や
蛸壺(たこつぼ)のようなものに、
嵌(はま)り込んだからに、
決まっています。
その経緯(いきさつ)を、
わたしたちはロマンチックに、
免疫と言います。
これこれの、特定の組み合わせが、
どうして、安定するのかしら。
それが、物(もの)として、見えるからですが、
言葉や記号や、算盤(そろばん)の玉のように、
物が見えるのは、特定の判断の組み合わせである、
という意味です。
算盤の玉って、物(もの)ですけど、
マルペケの判断を、意味しているでしょう?
わたしたちが見ている物も、
すべては、マルペケの判断の組み合わせなの。
特定の組み合わせが、特定の物に見えるのは、
文化的な約束事です。
言葉や文字(もじ)も、そうでしょう?
特定の振動や、特定の光と陰が、
特定の意味を持っています。
物も、特定の判断の組み合わせが、
特定の物に、見えるように、
わたしたちは、生まれた後に、
文化的に習得しました。
特定の物って、
他人と同じ物に、見えているのでなく、
マルペケの判断の、
組み合わせが同じなら、
同じ物に見えていると、
文学的に表現されます。
そうでなければ、
他人と自分の、知覚の中身を、
対照する方法は、ありません。
マルペケの判断しか、見ていません。
科学技術が、同じ手順なら、
だれがやっても、同じ結果になるのは、
当たり前なの。
同じマルペケの判断の組み合わせなら、
他人と自分の見た物は、同じであると、
言っているだけです。
特定の物は、
特定のマルペケの判断の組み合わせですから、
赤い花は、赤いと、言っています。
わたしたちは、それを、言葉だけでなく、
数字(すうじ)や、算盤の玉や、コンピュータや、
色々な物などを使い、
あの手この手を、混ぜこぜにして、表現しています。
数学(すうがく)も、そうでしょう?
数字(すうじ)だけで、数学は成り立ちません。
必ず、日常言語が必要ですから、
憲法の思惑と、似たようなものなの。
黒船や原爆の、科学技術や数学も、
憲法と同じであると、
ダグラス・マッカーサーが、言っていました。
玉蜀黍(とうもろこし)で作ったパイプって、
食べられるのかしら。
精神の病気の人は、
混ぜこぜや、掛け持ちが、
苦手(にがて)なの。
組み合わせが複雑になると、
苦しくなります。
男はこれこれ、女はこれこれって、
杓子定規に定義したくなります。
蛸壺(たこつぼ)に
嵌(はま)りやすいのを、
昔の心理学者は、
生まれた後に、最初に見たものに、
いつまでも着いて行く、と言いました。
焼き鳥の習性のようなもので、
変更不能なので、串刺しにされて、
食べられます。
こっちとあっちを、くっつけただけで、
組み合わせて、選択する能力が、低い。
組み合わせに、条件を付けるって、
「ここに」の、「ここ」や「に」や、
「もしも」や「ならば」などのように、
論理学の記号で表される手順が、たくさんあります。
ほとんどは、生まれた後に習得しましたが、
いくつかの基本的な手順は、
自動機械のプログラムのように、
生まれた時に、すでに機能しています。
生まれてからは、習得不能ですので、
論理能力は、生まれつきに決まっていると、
言われますが、
ぶち壊すことは、できますから、
必ずしも、変更不能でありません。
焼き鳥が、別の道を歩くの。
生まれつきに、
脳みその神経の繋がり方、と言われる物に
なっているから、
死んでいるようなものですが、
神経細胞は、突起と言われる手足や、
絶縁被覆のような鞘(さや)が、
溶けてなくなったり、
ぼろぼろになったりして、
自分で死んで行くかのように、
みんなに殺されることが、
少なくありません。
邪魔者が、
みんなに虐(いじ)められるように、
社会の底辺の、論理能力の低い人たちは、
論理のせいで、共食いをしますので、
仏教では、修羅や餓鬼などと、
言われます。
インドヨーロッパ文化の論理主義の、
階級や弁証法が、よく現れています。
マルペケの組み合わせって、
数学や科学技術やコンピュータですけれど、
お釈迦さんの考え方の、
延長線上にあります。
細胞の自死のように、
みんな虐め殺されて、
死ぬしか、浮かぶ瀬がないって、
日本国憲法みたいに、哀れです。
修羅や餓鬼が、哀れでなく、
お釈迦さんのように、
インドヨーロッパ文化の
主流を行く考え方が、哀れです。
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