普通に、繁縷(はこべ)と言えば、
小繁縷(こはこべ)と、緑繁縷(みどりはこべ)の、
総称です。
牛繁縷(うしはこべ)は、
繁縷(はこべ)の内でない、と言う人もいるから、
ややこしい。
ウシハコベは、最近の帰化植物ですので、
昔の日本の、繁縷の中に、入らない、
という意味です。
昔からの、在来の繁縷を、
西洋の分類学により、分類すると、
ハコベと、ミドリハコベの、2種になります。
なんで西洋の分類学なのに、
在来の繁縷という言葉を、規定するのかは、
よくわかりません。
写真は、コハコベ Stellaria media です。
ラテン語の stella は、星ですから、
花の形を、言っています。
media は、何が中ほどなのか、よくわかりません。
日本の、どこにでも育つ草花ですので、
日本人は、鶏(にわとり)が好きなんでしょう。
鶏は、これを見つけると、真っしぐらです。
鶏舎のブロイラーも、そうでしょうか。
ほとんどの人間は、焼き鳥と変わりません。
*** ***
性転換医療は、社会の底辺の、事情を知らなければ、
性転換が、脳や精神の、論理を知らないように、
精神の病気の症状と、同じです。
論理能力の低い人たちが、論理の体裁を装い、
これこれならば、これこれであると、
主張したり説明したり解釈したりすることが、
間違いでありながら、間違いに気づかずに、
確信して、周囲の人が付和雷同する事情は、
社会の底辺だけでなく、権力のてっぺんも、
五十歩百歩です。
能力が低ければ、仕方ありませんが、
高い論理能力も、相対的に高いだけなのに、
科学技術が確信される事情は、
間抜けで粗暴な犯罪を、発見して、
社会の底辺の人たちを、逮捕した警察官が、
喜んでいるようなものです。
悪い奴を、捕まえるのですから、
誇りに満ちています。
嬉しくて、仕方ありません。
科学技術を確信する気持ちも、それと同じなのに…
誇りや喜びが、物や論理として、知覚されますが、
悲しみや怒りや苦しみが、
神さまを信仰するかも、知れません。
犯罪や精神障害は、
間違いや嘘や噂(うわさ)や
迷信や精神症状などを、本人だけでなく、
周囲の人が確信して、行ないますので、
裁判官やお医者さんに、
間違いを指摘されて、
ああ、そうだったのかと、
納得して後悔しても、
捕まったり苦しんだりした状況から、
そう言ってしまっただけです。
冤罪なのに、
わたしがやりましたと、自白するのと、
同じ精神状況です。
論理能力の低い人たちは、
たぶん、生涯に渡り、
これこれならば、これこれである、
という論理を、理解できません。
他人の顔色を、窺(うかが)えないのと、
科学技術を理解できないのとは、
よく似ています。
権力と論理とは、同じかも知れません。
論理能力は、病気のせいでなければ、
生まれた時から、死ぬまで、
変わりません。
向上することも、低下することも、
ありません。
生まれつきに、決まっています。
中学生の国語の読解力問題を解き、
半分くらいしか、正解できない人は、
これこれならば、これこれであるかって、
類推できませんから、
これこれは、法律違反の犯罪であるとか、
悪徳の限りであり、
みんなに嫌(きら)われるから、
行なってはいけない、と言われても、
判断の筋道(すじみち)を、
理解できません。
行なってはいけないと、
禁じられたのに、行なえば、
痛い目に遭うから、しません。
それを、わからせるのが、至難です。
権力の筋道(すじみち)が、
どこから出て来たかを、知らないのに、
論理を理解できるわけがない。
生まれつきを争っているのは、
権力だけでなく、数学や科学技術などの、
論理が、そうなの。
憲法は、人種や信条や性別や
社会的身分や門地などにより、
差別されないことを、
保証していますから、
裁判や天皇制や国家権力だけでなく、
論理や知覚による判断を、
否定しています。
感情や実力行使により、
社会を運営すると、宣言しています。
アメリカ合衆国が戦争に勝ち、
日本人を奴隷にしたのですから、
当たり前です。
弱い奴や精神障害者を、虐(いじ)めても、
面白いだけで、だれからも怒られません。
むしろ、犯罪者や精神障害者を、やっつけると、
みんなに喜ばれて、褒められます。
近所に、犯罪者や精神障害者がいると、
家の値段が下がりますから、当たり前ですが、
本当は、お金よりも、
やっつけるのが面白いからです。
ストレスが解消されて、
精神衛生上は、好ましい結果になります。
お医者さんが、その典型でしょう?
弱い者や精神障害者を、虐めるのは、
ほぼ100%の確率で、弱い者や精神障害者です。
社会の底辺では、
社会の全部が、犯罪に、どっぷりと浸かっています。
そういう事情を作ったのが、
社会の上のほうの、権力者たちですから、
法律家に論理能力がないのは、当たり前です。
数学の能力があっても、論理能力が高くないのは、
科学技術や論理の由来を知れば、当たり前です。
社会の底辺は、社会全体の、何%なのかしら。
毎日4時間も5時間も、学校の勉強を、
学校以外でも、繰り返さなければ、
一流大学の医学部に、合格できない人たちって、
たぶん、社会の底辺で、暮らしています。
権力者って、弱い人や精神障害者を、
虐(いじ)めます。
権力があるから、犯罪があるのに、決まっています。
弱い者を虐めなければ、権力でありません。
日本国政府が、弱い者を助けてくれると、思うのは、
あほです。
弱者や精神障害者が、共食いをしなければ、
権力は、生まれませんでした。
人間の上に、
天の神さまや、菩薩や如来が、
ふんぞり返っていますから、
人間は、社会の底辺に決っていると、
お釈迦さんは、おっしゃいました。
お医者さんが、
社会の底辺の、共食いの事情を知らずに、
性転換医療を行なうのは、
たぶん、数学や科学技術などの、
インドヨーロッパ文化の、
論理の事情を知らずに、
お医者さんになったのと、同じです。
東京大学医学部に行こうとして、
受験に失敗した麻原彰晃氏は、
ヒポクラテスや緒方洪庵ごときが、
医者になるから、世も末であると、
言いました。
わたしも、片手間ですが、
化学会社を経営していましたから、
サリンぐらいは、作れますけれど、
社会の底辺を殺せば、
だるま落としなのに…
麻原君は、
湯川君や後藤君や上原君よりも、
面壁九年の達磨さんに、
似るべきでしたが、
目が悪かったので、旅行できなんだ。
当時の南ヨーロッパの、
キニク派の思想家たちに、
達磨は、そっくりの考え方でしたから、
中国禅宗の始祖の、インド人と
言われていますが、
たぶん、ソクラテスの系統です。
ペルシャの向こうから、
中国に来ましたが、
インドであると、中国人は思いました。
ギリシャローマとインドの、
区別がつかない。
ヨーロッパ人も、
インドと中国の、区別がつきませんが、
伝統的に、自分たちの文化の、
故郷(ふるさと)のインドに、
憧れていました。
アレクサンダーのように、
インドに帰ろうとして、
達磨は、中国に迷い込んだ…
ヨーロッパ人は、
雨に打たれると、死にますから、
インダスを越えて、
ガンジスへは、行けませんでした。
泥沼の道なき道で、殺し合う方法を、
知りませんでした。
インダス川を遡り、
アムダリア川からシルダリア川に、
行ってしまうのは、当たり前です。
ロシア人も、インドに憧れていますが、
モンゴルや中国を、軽蔑しています。
エステティックが、
インドヨーロッパ文化の特徴でしたから、
モンゴルや中国は、醜い国でした。
日本に来るインドヨーロッパ人も、
ゲゲゲの鬼太郎のような、
化け物の好きな、変わり者ばかりです。
達磨も、
樽(たる)のディオゲネスのような
人でしたから、
中国に来てしまいました。
面壁9年と聞くと、達磨落としは、
9段積みだったのかと、数えたくなります。
人間の知覚の中身って、
他人と、照らし合わせて比べることが、出来ません。
他人の知覚の中身を、見たり聞いたりは、
出来ないでしょう?
他人と、同じ物を見たから、
そこに、そういう物があると、確信します。
同じ物を見たと、どのように、証明しましたか。
二つの脳を、電線で繋ぎ、
互いの情報を、共有する手段は、
今のところ、ありません。
ほかの手段により、コミュニケーションをします。
どのような物を、見たかと、絵に描いてもらえば、
手っ取り早いかしら。
わたしの見た物と、いつも、だいたい同じでしたら、
確かに、二人は、同じ物を見ています。
たぶん、物が、そこに在ると、推測するでしょう。
でも、
その絵が、他人の知覚の中身と、同じであるって、
どのように、証明するのでしょうか。
その絵を、わたしが見た時に、
わたしの知覚の中身が、その絵と同じであることを、
他人に、どのように、証明すれば良いのでしょうか。
他人どころか、自分にさえも、証明の要点は、
何と何に着目して、
マルペケの判断が、同じであったか、違っていたか、
ということしか、ありません。
なーんだ、コンピュータと同じでないか。
他人が、嘘をつかずに、正直に絵を描いたのを、
他人自身が、自分ために証明するのも、
同じ要領ですが、
たぶん、人それぞれに、何と何に着目するかが、
違います。
絵を描いても、問題が一つ、増えただけで、
ちっとも解決になりませんが、
わたしの知覚の中身と、他人の知覚の中身との、
異同は、コンピュータのように、
マルペケの判断を比べていますから、
着目点を決めるプログラムにより、
組み合わせが同じとか、違うとかと、判断されます。
だいたいは、みんなに共通の、
文化的なプログラムを、使いますから、
人それぞれにより、判断が異なるせいで、
社会が混乱するよりも、
誰も彼もが、同じ物を見る可能性のほうが、
高いかも知れません。
戦争や喧嘩などの、殺し合いよりも、
平和な生殖活動のほうが、時間が長い。
わたしたちは、
これこれの状況なら、これこれの知覚の中身を、
脳が自覚しなければいけない、という文化の通りに、
物事を見ていると、言われています。
だいたいは、似たような状況のもとで、
似たような知覚の中身に、なりますが、
何が、みんなに共通であるか、という評価が、
人それぞれに異なりますので、
個人の立場や考え方などにより、
知覚の中身が、少しずつ違います。
参照すべき境遇や履歴や遺伝的素質などから、
全く同じ知覚になることは、あり得ませんので、
わたしたちは、個性や経験などと、言います。
コンピュータと同じで、つまらないけれど、
電信が実用化されてから、こっちの世界は、
そのように動いています。
ついて行けない人が、
イスラム国や性転換や湯川後藤君のように、
間引かれて行きます。
黒船や2度の世界大戦や原爆や、
ソ連と日本経済の没落なども、そうでした。
事実が、脳の中のマルペケとして、作られる様子は、
科学技術が、物をくっつける作業と、
軌を一にしているのですが…
言葉に表現すると、ややこしくなりますが、
わたしは、小学5年生のころに、
同じようなことを、考えました。
当時は、文学的に、言葉の整理が、未熟でしたが、
わたしは、文学が嫌(きら)いなので、
今も、たいして変わりません。
それよりも、言わんとしている話の筋(すじ)が、
小学高学年の頃と、今と、まったく同じであるのが、
大切です。
論理能力が、
たぶん、生まれつきに変更不能であるって、
ようするに、珊瑚礁のように、
死んだ能力であるって、意味なの。
数学や科学技術って、
黒船や原爆やコンピュータみたいに、
他人を殺すだけでなく、自分が死んでいるでしょう?
だから、変更不能ですけれど…
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