わたしは、函館や神岡で、生まれ育ちましたが、
大阪や東京の生活が、長く、
最近は、横須賀に暮らしていますので、
別に、寒さに強くありません。
寒いのは、大好きです。
昨日の仙台は、昼間でも氷点下でしたが、
夜になってから、暖かくなりました。
変な天気でした。
一昨日(おとつい)は、女子駅伝をやっていました。
テレビで走っていたので、
外に出ると、やっぱり走っていました。
こういう脳みその仕組みって、好きだなあ。
たくさんの人が、わたしと同じ気持ちでしたので、
電信を使ったコンピュータを、作ろうとしました。
コンピュータやインターネットを見れば、
わかるように、事実は、必要ありません。
金本位制でなくても、良いのに、似ています。
事実が在ると、想定するのは、
伝えられている情報を、ぶち壊したり、
伝えられていない情報を、
大切にしたりするためです。
価値と言われるやつですが、
こっちとあっちや、これとあれを、
結んだり、くっつけたりするために、
どうしても、二種類の情報が、必要なの。
弁証法と言われるやつですけれど、
情報を変化させるための、手です。
変化を認識するためと、言っても、同じ意味です。
事実と言われるものがあるって、想定すれば、
物事(ものごと)が、変化します。
伝えられた情報だけの、
コンピュータやインターネットの、世界とは別の、
事実と言われる架空の世界を、想定すれば、
嘘や変化のある豊かな情報を、
嫌(いや)と言うほど、堪能することができます。
嫌になれば、二足歩行を止めるように、
伝えられた情報だけの世界に、
立ち止まることも、出来ます。
伝えられた情報でない情報があると、言われても、
伝えられていないものを、どうやって知るのかしら。
嘘と言われても、伝えられた情報に、
なんで、嘘と本当の、二種類があるのかって、
摩訶不思議です。
どうすれば、伝えられていない情報とやらを、
知ることが出来るのかしら。
事実と言われる世界を、想定すれば、
伝えられていない情報を、知ることが出来ると、
教えられます。
神樣がいる、というのと、どう違うのかしら。
伝えられていない情報を知るって、
要するに、誰かにとっての、嫌な情報をぶち壊して、
好きな情報を、他人に吹き込む方法と、
同じでないのかしら。
事実を想定するのは、他人と争うためです。
インドヨーロッパ文化の特徴は、論理主義ですけれど、
弁証法と言ったほうが、よくわかるかも知れません。
目で見て、手で触り、耳で聞く知覚が、
そもそも、情報を変更するための、手段です。
知ることは、
ぶち壊して、別のことを、作るようなものですから、
消化に、似ています。
情報を食べているのに、事実を知る、と言うのは、
変(へん)な文学です。
神樣は、ご先祖さまに、決まっていますから、
事実を知るって、情報を食べて、世代交代のように、
その組み合わせを、変更します。
事実は、真実や真理や理想などに、似ています。
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