お寺でなく、うちの近所の民家なので、内緒。
特徴のない部分しか、貼り付けられませんが、
大きなお屋敷です。
古くなく、築35年ぐらいの新品ですが、
維持費が大変なので、買わないかと、
持ち掛けられたことがあります。
建物を壊して、土地だけにしないと、
どうにもなりません。
田舎は、集落が親戚ですから、
よそ者が暮らすにしても、儲けるにしても、
集落の勢力を、解体するくらいに、
山や田畑を買い占めなければ、いけません。
金額の折り合いよりも、
集落の行く末を左右する土地利用計画を、
地元の有力者が、決めます。
横須賀の総理大臣と、親しくありませんので、
買えるわけがない。
この世の中は、
賄賂と談合で、成り立っているのに…
塀の向こうの木は、栴檀(せんだん)です。
手前の草みたいな、株立(かぶだち)の低木は、
柘植(つげ)の群落。
*** ***
わたしたちが、事実と言われる物を、知覚するのは、
共通点を抽出して、分類整理したからなの。
赤い色のように、
その共通点は、目の能力によりますから、
何を共通点とするかは、
人間の体のほうに、プログラムとして、
書き込まれています。
生まれた後にも、流行文化を習得しますから、
文化のほうにも、プログラムが書かれています。
何を共通点とするかって、無数にあります。
どうして、幾つかの共通点の組み合わせを、
選んだのかって、
プログラムを見れば、わかります。
物と物の間には、無数の共通点がありますから、
幾つの共通点があるかって、数えられません。
でも、わたしたちが、物として見るときは、
特定の幾つかの共通点の、組み合わせにより、
一つの物と言われる纏まりとして、知覚します。
共通点の塊(かたまり)が、物体のようなものですが、
無数の共通点を選択したわけでなく、
たいていは、ほんの数個の共通点の、組み合わせです。
写真に撮れば、自分が見た物と、同じであると、
わかりますけれど、
写真に記録される物理学的な要素を数えるのは、
簡単でしょう?
光の波長や、量などを、
化学物質の粒子や画素の、
空間的なキメの細かさで、測り、
記録しただけです。
時間や焦点距離などを、変えると、
知覚された事実に、似たり、似なかったりします。
むっちゃ、単純な共通点なのに、
写真を見ると、自分が見た事実と、同じであると、
感じますから、
事実は、もの凄く幼稚な、
共通点の組み合わせの、可能性が高い。
人間の知覚の仕組みが、幼稚なんですけれど、
物事(ものごと)には、無数の共通点があるのに、
単純な共通点により、初歩的に抽出しただけで、
ちゃんと、事実が出来上がります。
体のプログラムは、
物理化学のように、簡単に探り出せますが、
文化のプログラムを、抽出しても、
他人や社会が、同意しませんから、
それは事実でないと、言われてしまいます。
お前の脳みそのプログラムが、あほなのに…
無数の共通点の、組み合わせを使えば、
いったい、何が見えるのかしら。
答えは簡単で、
「何も見えない」と、言われています。
無数の共通点がありますから、
共通点の組み合わせが、多くなればなるほど、
何も見えなくなります。
少数の共通点の、
幼稚な組み合わせで、あればあるほど、
事実と言われる物事(ものごと)が、
確かに、見えます。
このことを、ほんとは、何も無いのに、
人間が幼稚であれば、確かな事実が見える、
と言うことも、できます。
事実って、作り話でないかと。
その由来は、
物体として変更不能な体に、書かれたプログラムや、
流行文化のプログラムにすぎないと、疑われます。
知覚の仕組みってやつですけれど、
何も無いところに、事実と言われる世界を作るのは、
コンピュータと同じです。
事実は作られる、と言う意味は、
実行することにより、
体というプログラムを変更したり、
文化の中身を、変えたりすることが出来る、
という意味です。
体を変更するって、
殺したり産んだり、することですが、
育ったり育てたり、することも、そうです。
性転換には、自分を壊すほかに、
その機能が、ありませんが、
文化を変える機能は、あります。
それなら、医療でなく、
文化運動であれば、良いのに、決まっています。
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