インドやアメリカ合衆国の、綿(わた)は、
植民地や奴隷制を、象徴する植物かも、知れません。
熱帯の原産ですが、古くから栽培されているので、
現在の、4系統の栽培品種と、
40種ぐらいの、野生のワタ属 Gossypium との関係は、
知りません。
種(しゅ)が異なると、自然には交雑しませんが、
栽培されれば、簡単に交雑するものも、
少なくありません。
距離が離れているために、
互いに、交雑しなかった種は、
一緒に栽培されれば、
喜んで交雑する可能性が、高い。
それでも、自然には交雑しない、というだけで、
種が違うと、されるのなら、
人間の、黒人と白人も、
昔は、互いに姦通しませんでしたから、
種が違ったのかしら。
だれでも、遠くの人とは、性交渉が出来ませんし、
現代では、親の所得よりも、
御本人の所得が違えば、結婚は難しい。
それらは、人為なので、
自然とは、意味が違うのかしら。
人間のすることを、人為的な行為と、
動物的な行動と、自動機械のような動作とに、
仕分けするのは、
民主党とマルクス・レーニン主義みたいに、
ややこしくなります。
精神科医が、精神分析をした時や、
占い師が、
漢学者を誑(たら)し込んで、結婚した時は、
どうかしら。
数学や物理化学だけでなく、
科学技術の成果も、そう。
事実の知覚って、生まれつきの素質や習慣のように、
自動機械としての脳が、
無自覚に、分類して記憶しますから、
意志や行動は、虚(むな)しいと、
お釈迦さんの時代から、
インドヨーロッパの人たちは、
高貴なゲームのように、悩むのが、好きでした。
感覚器官や脳や手足が、
事実として、確かにあるように、見えるのも、
知覚の仕業(しわざ)ですから、仕方ありません。
人為的に、
細胞を融合したり、遺伝子を組み合わせたりすれば、
簡単に、新しい品種ができますが、
そいつを、そのへんに、バラ撒けば、
自然に、野生種と、交雑するかも知れません。
距離が離れていただけで、
自然には、交雑しなかったけれど、
人為的に、一緒に栽培すれば、
簡単に交雑するのは、人間の場合と、同じです。
遺伝子を組み替えられた綿の栽培は、
カルタヘナ法に違反すると、
農林水産省は警告しています。
あの美しいカリブ海の植民都市で、
世界各国の行政官と遊べば、
そりゃあ、極楽でしょう。
カルタヘナ法は、
「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の
多様性の確保に関する法律」と、言うそうですが、
性同一性障害の特例法のように、
事務員の生存のために、作られました。
仕分けを煩雑にして、職権を確保するための、
手なの。
神経細胞の樹状突起みたいな奴です。
生殖の機会がなかったせいで、
互いに別の種として、分類されれば、
虐(しいた)げられた人間は、
ややこしいことに、なりそうですが、
生殖のための、体の部分の、
空間的な形や、時間的な成長などの違いは、
生殖の機会を、調節して、
相手を、選択するためにありますから、
生物の種(しゅ)の違いや、進化の枝分かれって、
似た者同士を、分類するために、
何を共通点にするかっていう価値の違いが、
事実の認識の違いになるからに、決まっています。
何を共通点にするかって、
どこで枝分かれをしたかっていう道筋の違いです。
すべての組み合わせを、試してみるのでなく、
よく使う道筋の、車線が増えて、太くなるように、
イカサマ賭博のサイコロのような枝分かれを、
脳の神経は、作ります。
枝分かれって、組み合わせを表すための、
回数だけの記憶なのに、
特定の道筋が、特定の意味を持つようになるのは、
動物の脳の上に、人間の大脳が発達したからです。
脊椎動物や哺乳類に共通の、神経の枝分かれって、
すでに特定の意味を持つように、
変更不能になっています。
変更不能な根本(ねもと)のほうで、
枝分かれをすれば、
枝先のほうの意味が、最初から限られているのは、
当たり前です。
概念の分類って、すべて、そう。
脳みその、
神経の枝分かれや、進化の系統図だけでなく、
化学物質が、くっついたり離れたりするのも、
分類と同じですから、
事実といわれる知覚の対象が、在るかのように、
想定する論理が、そもそも、
変更不能になった生命の死骸のようなものかも、
知れません。
普通は、死骸と言わずに、生産物と言います。
垢(あか)やフケを、細胞の死骸と言わずに、
生産物と言うようなものです。
木材や果実や、綿の実なども、そう。
インドヨーロッパ文化の特徴は、
論理や弁証法などと言われる筋道ですが、
ただの、新聞配達の道筋のようなものです。
通った道筋って、記憶ですけれど、
もちろん、生産物です。
死骸と言っても、構いません。
神経細胞は、神経の軸索や樹状突起などの、
死骸を生産しています。
まだ死んでないって、文句が出ますが、
個体も、生殖をして、世代交代をすれば、
死んでいませんけれど、死んだと言われます。
個体という単位で、生命を見るのは、
細胞や組織や器官などの単位だけでなく、
概念の分類や枝分かれのように、
マルペケの判断の組み合わせを、
あれこれと変更しているのかも知れませんし、
変更していないのかも知れません。
いつまで経っても、変わらない信号機は、
たぶん、壊れているように、
妄想や幻覚や支離滅裂の中身が、変更不能になると、
文化と言われたり、病気の症状と言われたりします。
ここ数千年も、
夜空の星が、規則的に運行されているのは、
精神の病気の疑いが、濃い。
ワタ属の種類が、
自然には、互いに交雑しないのでしたら、
どのようにして、
様々な変種や品種が、できたのかしら。
突然変異かも知れませんが、
失われた原種が、たくさん、あるのかも知れません。
ワタ属は40種しか、ありませんから、
互いに、生殖ができるのかも、知れません。
わたしは、種類を分類するときに、
どれと、どれとが、
生殖できるのか、できないのかを、
一番、知りたいのですが、
形を見ただけでは、わかりません。
人間も、似たようなものですが、
自分の趣味でないから、
あいつとは、生殖しないとか、
わざと、形を壊して、
生殖できないようにするとかって、
種(しゅ)が違うので、ないかしら。
左手前に咲いている奴は、蓼藍(たであい)です。
右手前は、アメリカ栴檀草(せんだんぐさ)みたい。
ズームレンズを望遠側に一杯にして、
撮っていますから、近くまで行っていません。
畑に入ると、怒られるから。
google street view で、近づけば、
すぐにわかりますが、
コロンビアのカルタヘナ Cartagena_de_Indias は、
遠くから見れば、美しいのに、
日常的な街並みは、あまり清潔でない。
性転換をする人たちを、思い出します。
病巣です。
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