シマスズメノヒエ 1604 エリートの、精神の病気

単子葉の草の中でも、イネ科は、
花の季節でなければ、なかなか識別できません。
 
スズメノヒエ属 Paspalum は、
牧草にするのでなければ、ただの雑草ですけれど、
人間の暮らす所では、しぶとく生き残り、
イネ科の葉っぱを、茂らせます。
 
麦みたいに、
踏まれて傷つけば、茎が太くなりますから、
人間が歩けば、体が鍛えられて、
いよいよ、しぶとくなる。
くそったれです。
 
今は、花が咲いていますが、
穂の下側に、黒い線が、くっついていますので、
虫が一列に並んでいるように、見えます。
 
葯(やく)と花柱が、黒いんです。
羽状に枝分かれしているのが、雌しべの先端。
稲は淡黄色なのに、こいつは真っ黒です。
 
南米の原産ですが、
日本では、小笠原で発見されたのが、最初でした。
島雀の稗(シマスズメノヒエ)と、
名付けられましたが、
今は、日本本土の、ごく普通の雑草です。
 
蟋蟀(こおろぎ)が鳴き、
狗尾草(えのころぐさ)や島雀稗が咲くと、
秋です。
昨夜は、中秋の名月でした。
 
英語では、Dallisgrass と言い、
アメリカ合衆国の、ダリス A.T. Dallis という人が、
牧草として推奨しましたので、
芝生の敵になり、名を残しました。
 
        ***          ***
  
何度も書くと、怒られるので、恐縮していますが、
事実って、空間や時間などの、感覚の、
公共の目盛りが、
生まれつきに、自動的に表わされているだけでなく、
空間や時間の、特定の位置と、別の位置とを、
一括りにして、同じであるとする、という定義を、
具体的に表わしています。
 
物体は、その定義の印ですから、
論理の具体的な中身が、事実として、表現されます。
 
論理法則と言われる共通の定義が、
あるかのように思われるのは、
空間や時間のような仕方で、感覚するのが、
たくさんの人に、
生まれながらに、共通であるからです。
 
そういう神経や化学物質の、
繋がり方やくっつき方が、みんなに共通なの。
そうでない人が、間引かれることにより、
文化的に、脳味噌が、品種改良されて来ました。
 
論理法則は、たぶん、
時間や空間と言われる感覚の仕方を、言っています。
 
具体的な論理の筋道のほうは、
具体的な時間や空間の中身と、言われるやつです。
 
時間や空間の中に、具体的な物体がある、
という知覚の中身のことを、事実と言いますから、
具体的な論理の筋道と、同じです。
 
特定の、時間や空間の位置と、
別の特定の、時間や空間の位置とを、
こっちとあっちのように、繋いで、
一纏めにして、結ぶ、という定義を、
具体的な物体と、言われる事実として、
わたしたちは、文学的に表現しています。
 
変(へん)な言い方ですけれど、
自分と他人の、脳の神経や化学物質は、
文学的にしか、繋がっていません。
 
自分の知った事実と、他人の知った事実が、
同じであるか、違うかを、比べるには、
言葉で話したり、絵に描(か)いたり、
一緒に、手で触ったりして、
コミュニケーションをしなければ、いけません。
 
そんなもん、伝える手段が、
感覚器官を経て、知覚されるのですから、
元(もと)ネタの事実を、感覚するのと、同じです。
 
これでは、いつまで経っても、
自分と他人の、知覚した事実が、同じか違うかを、
比較できません。
 
四角い物を見た、と言っても、
自分の思っている四角と、他人の思っている四角は、
全然違う形かも知れません。
教科書の四角という単語を見ても、
自分と他人とは、似ても似つかぬ形を、
思い浮かべているのかも知れません。
教科書に、図が描かれていても、
自分と他人とは、全然違う形を、
見ているのかも知れません。
 
そんなことを言い出すと、
どの人の感覚の中身も、ひとりよがりに、
なってしまいます。
 
そこで、一人の人の、知覚の中身の、
事実と言われる幾つもの物体と物体の、
空間的な位置関係が、
時間的に、どのように変化するかを、
他人と比べます。
 
物体って、
こっちとあっちを結ぶ定義を、表現していますから、
定義の変化が、同じなら、
事実が同じであると、判断するのは、
当然かも知れません。
 
事実の知覚は、他人に、共感できる自分の能力を、
測っているようなものです。
言わば、権力の感情を、表わしています。
 
心筋細胞は、一つ一つが離れていれば、
それぞれのテンポで、拍動しますが、
くっつくと、みんなが同じように、拍動します。
 
みんなと一緒のことをするのは、
権力の仕組みと、同じですけれど、
他人に共感できるから、
コミュニケーションが、成り立ちます。
空気を読むってやつです。
 
わたしたちが、目で見て、手で触り、耳で聞いて、
事実を知覚していると、思っていたのは、
他人との、知能や権力や感情の、測り合いを、
していただけかも、知れません。
 
自惚(うぬぼ)れや自慢の、競争みたいなものです。
 
目や皮膚や耳などの、感覚器官は、
事実の受信機でなく、
序列や選別のための、敵味方識別装置であると、
統合失調症の人は、言います。
免疫機能のようなものです。
 
この考え方を、統合失調症の人は、
わたしと似たような言葉に、表現しないかも
知れませんが、
似たようなことを、考えているのでないかと、
推測します。
 
わたしは、感覚を、敵味方の識別であると、
一々、考えません。
事実を、客観的に存在する自然の一部であると、
習慣的に感じます。
みんなが、そう思っていますから、
そのほうが便利です。
 
事実の感覚が、
序列や選別の、敵味方を識別する感情と、
同じであると、感じられる人が、
お医者さんに、たいへん多いのは、
そのような人ばかりを、
入学試験が、選別したからです。
 
類は友を呼びますから、
統合失調症の選別に、似て来るのは、
仕方ありません。
 
賢い人って、
あまり、お医者さんにならないのと、同じように、
問題を解くために、
何の努力や苦痛も、必要のないような、
知能検査みたいな、序列や選別が、
火を見るよりも明らかな、日常生活って、
たぶん、精神の病気のように、
支障を来(きた)します。
 
性転換医療って、それかも知れないの。
お医者さんの、自惚れや自慢かも。
 

 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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