【白い月】 La lune blanche
ヴェルレーヌ Paul Verlaine の
優しい歌 La Bonne Chanson の中の詩に、
レイナルド・アーン Reynald Hahn が、
曲を付けました。
カウンターテノール : フィリップ・ジャルスキー
Philippe Jaroussky
*** ***
La lune blanche
Luit dans les bois ;
De chaque branche
Part une voix
Sous la ramée...
Ô bien-aimée.
L'étang reflète,
Profond miroir,
La silhouette
Du saule noir
Où le vent pleure...
Rêvons, c'est l'heure.
Un vaste et tendre
Apaisement
Semble descendre
Du firmament
Que l'astre irise...
C'est l'heure exquise.
ましろの月 ポオル・ヴヱルレヱン
永井荷風訳
ましろの月は
森にかゞやく。
枝々のさゝやく声は
繁のかげに
あゝ愛するものよといふ。
底なき鏡の
池水に
影いと暗き水柳。
その柳には風が泣く。
いざや夢見ん、二人して。
やさしくも、果し知られぬ
しづけさは、
月の光の色に浸む
夜の空より落ちかゝる。
あゝ、うつくしの夜や。
有名人ばかりの、
揃い踏みみたいなビデオですので、
ついでに、永井荷風の訳を、
貼り付けて置きました。
死んでから、何年になるのか、
わたしの子供の頃なので、
もう、忘れました。
著作権切れと、思います。
三島由紀夫氏のお父さんが、
永井荷風に似た顔つきでしたので、
うちの荷風先生と、呼ばれていました。
三島由紀夫氏は、
異性愛も、できるバイでしたので、
同性愛を、苦にしていませんでしたが、
わたしは、三島氏を見て、
統合失調症でないかと、疑いました。
すぐに、自殺をしましたので、
疑いを検討する暇が、ありませんでした。
躊躇せずに、手を打たなければ、
役に立たないと、思いましたが、
彼の症状では、だれも、強制的に
精神病院に入れられませんでしたので、
諦めなければ、仕方ありませんでした。
ただの、男性同性愛者でなく、
女装の男性に近づき、
女装の仲間内の社会に、
半分、足を踏み入れていました。
御本人も、述懐していましたが、
女の子のように、育てられたので、
その習慣が抜けなかったのと、
男性同性愛や、
ボクシングや剣道や民兵組織などとは、
切っても切れない関係にありました。
はっきりと、精神の病気であると、
わかりましたので、
責任能力があるとするのは、
酷かも知れませんが、
フランス革命の人権を、尊重しなければ、
日本国憲法に、怒られます。
みんなと一緒のことが、できなくなり、
みんなと違うことを、
必死で、実行しなければいけないと、
思い込んでいる風情(ふぜい)でした。
子供の頃の、境遇や教育だけでなく、
たぶん、乳幼児の頃には、
すでに、生まれつきの精神の病気が、
周囲の人に、知られていたと、思います。
第二次世界大戦の頃になると、
大学の入学試験の問題は、
今と、似たような質でしたから、
毎日、5時間も、
一生懸命に勉強をしなければ、
合格できない人が、入学をするって、
精神の病気の、
症状の一つかも知れません。
何も考えなくても、
目で見て、手で触って、耳で聞いて、
事実を知るように、
問題を解ける人もいますし、
見たことや聞いたことを、一度に、
まるごと覚えてしまう人もいます。
それに比べて、
毎日5時間も、勉強をしなければ、
合格のできない人は、
何を、犠牲にしたのかしら。
ヴェルレーヌを、ベルレーヌと書けば、
あほと、言われます。
短いほうが、楽なのに…
優しい歌は、恋人に捧げた21篇の詩集ですが、
その6番目の詩が、白い月です。
レイナルド・アーンだけでなく、
フォーレも、作曲していますが、
どこが良いのかしら。
ただの、スケベ丸出しの、
涎(よだれ)を垂らした下半身の詩に、聞こえます。
遊び人の、言い草です。
アーンは、フランス歌曲の作曲家ですけれど、
父親がドイツ系ユダヤ人で、
母親がスペインのバスク人で、
本人は、ベネズエラの生まれでしたから、雑種です。
音楽は、フランスの純血かしら。
シャンソンは、話すように歌いますから、
はっきりと、ジャズと同じ系統です。
日本の、明治以後の歌は、
イギリスやドイツやイタリアの歌に、似ています。
形式的なの。
インドやペルシャの音楽も、
昔は、ジャズやシャンソンに似ていましたが、
最近の中国の音楽が、
明治以後の、日本とそっくりになったように、
どうして、アメリカ合衆国の真似(まね)をすると、
ジャズやシャンソンでなく、
イギリスやドイツやイタリアなどの、
杓子定規な音楽になるのかしら。
昔のニ胡(にこ)は、話すように奏でられたのに…
明治以後に編集された日本の民謡は、
全部、小学唱歌や演歌のように、
イギリスやドイツやイタリアの、猿真似に
改訂されました。
中国は、
話し言葉が、そもそも、音楽のようなものなのに、
イギリスや日本の真似をするなんて、
あほかも知れません。
数学や科学技術やエステティックのように、
単純で杓子定規なものから、
迷信や妄想や幻覚やサイコロの目のように、
出たとこ勝負の、変更不能なものへ、
流行文化は、高い所から低い所へ、
川の流れのように、変わって行くのかも知れません。
アメリカ合衆国の、真似をしようとすれば、
イギリスやドイツやイタリアの、
最初から真似ることになるのは、
ようするに、
初歩から順番に学ばなければ、理解できない、
ということでないのかしら。
数学や科学技術やエステティックって、
赤ちゃんみたいに、人間の判断の初歩でしょう?
フランスが、ヨーロッパの中心なので、
イギリスは、アメリカ大陸に渡らなければ、
フランスの真似が、できませんでした。
敵の風俗を真似ると、味方に殺されます。
カウンターテノールの、
フィリップ・ジャルスキーは、
青少年の頃から、芸術音楽の人でしたから、
生粋(きっすい)の遊び人の、嫌疑が掛かります。
どうしても、クチパクでないかと、疑いますので、
喉や口の中の、軟骨や筋肉を、動かさずに、
大人しく、声を出しています。
腹話術みたいなものでしょうか。
わたしは、三輪明宏氏のように、
男丸出しの声のほうが、
聴き応(ごた)えがあると、思いますが。
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