山桃は、あちこちで、街路樹になっていますので、
その実が、歩道に落ちる頃って、季節を感じます。
若いころは、
暦や歳時記のように、季節が大好きでしたけれど、
年を取れば取るほど、
毎年、変わらぬ季節感が、
精神の病気の症状のように、見えて来ました。
自然の季節も、変更不能になった文化のように、
精神の病気でないかと、疑うようになりました。
コンピュータって、ハードウェアと、
プログラムと言われるソフトウェアの、いずれもが、
みんなと一緒でしたら、
それぞれのコンピュータが、
皆、同じ判断をするのは、当たり前です。
ハードウェアって、
遺伝子工学のような、小難しい手順を踏まなくても、
犬や豚の品種改良のように、
文化的に好まれた遺伝的素質を、取捨選択して、
簡単に、ダックスフンドや四川黒豚を、
人間は、大昔から、作って来ました。
人間の品種改良も、同じです。
文化が、人間のハードウェアを作っています。
文化って、
ソフトウェアのプログラムに、決まっていますから、
みんなと一緒のハードウェアに、
みんなと一緒のプログラムを放り込めば、
目で見て、手で触って、耳で聞いて知る事実を、
みんなが、同じ夢のように見るのは、当たり前です。
電信や電話やラジオや映画やテレビだけでなく、
インターネットも、それをやっていますから、
言葉を使ったコミュニケーションや権力だけでなく、
目で見て、手で触って、耳で聞いて知る事実を使い、
科学技術が、それをやってるのに、決まっています。
数学や論理や事実や科学技術と聞けば、
目や皮膚や耳などの、知覚と同じように、
妄想や幻覚や支離滅裂などと言われる統合失調症の、
症状の一部なのに…と、わたしは、残念に思います。
お医者さんって、知的障害のようなものですけれど、
それを、持て囃すのが、
ここ数百年の流行文化ですから、
わたしも、それに乗って置きますけれど、
戦争になれば、目の前で、人殺しが起こっても、
日常茶飯の、当たり前の気持ちになるのと、
同じです。
季節や星空の移り変わりが、それなの。
人間の心が、変更不能になれば、
知的障害と言われるように、
数学の論理や、自然の規則性って、
精神の病気の、症状なのに…
山桃の実って、食べられます。
食用の品種があり、
栽培されて、商品化されていますが、
街路樹の実も、生(なま)で食べられます。
雌雄異株ですので、
雄木がなければ、結実しませんが、
街路樹には、雄木も、混じっています。
風媒花ですけれど、山桃の花粉症があるくらいに、
2~3kmくらいは、花粉が、飛んで行くそうです。
落ちた実は、踏み潰されて、
歩道が、黒く染まります。
雨が降ると、簡単に、色が落ちますので、
心配要(い)りません。
山桃の実の落ちる頃って、大好きです。
虫の入っていないのを、探して、
落ちた実を、つまみ食いします。
猩猩蠅(しょうじょうばえ)の幼虫そのものは、
食べても大丈夫ですが、
幼虫の中の寄生虫は、知りません。
*** ***
0コメント