昔の人は、縁起を担ぎましたので、
どこの家にも、植わっていました。
災いを転ずる意味から、難転と言われましたが、
取って付けたような、こじつけを、
本当に信じたのかしら。
庭に、成り木ものを植えると、病気になるって、
言われたりもします。
実のならない植物は、滅多(めった)に無いのに…
果樹を植えるのは、縁起が良くない、という意味かも
知れませんが、理由がわかりません。
論理能力の低い人たちの、社会の底辺は、
迷信により、成り立っていますから、
法律や科学技術や事実などが、幅を利かすのも、
無理からぬことです。
それらは、いずれも、
迷信の王様一族のようなものですけれど、
精神の病気の世界は、
統合失調症に、支配されているのかも、知れません。
数学のような論理や、宗教のような神秘は、
病気の世界の、代表的な虚妄であると、言えば、
オウムにそっくりに、聞こえますけれど、
間違っているとは、限りません。
南天(なんてん)は、
どうして、持て囃(はや)されたのでしょうか。
こぢんまりとして、病気に強く、常緑なので、
庭と言うよりも、玄関先に、
飾り物のように、植えて置くには、
持って来いかも、知れません。
魔除けの風習って、
風水や陰陽道のような、ものかしら。
古代の暦を作る手順が、
論理を理解できない人たちに、
占いや迷信のように、伝えられましたけれど、
天体の運行を、目で見て、季節を肌で感じて、
小鳥の声を、耳で聞いて知る事実って、
数学の計算や、科学技術の事実と、同じように、
わたしには、人類の代表的な、
妄想や幻覚や支離滅裂に、感じられます。
論理や事実を、本気で信じる人間に、なりたくない。
でも、信じている振りをして置くって、
性別の違和を訴えて、望みの性別の振りをするのと、
似ているかも知れません。
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