【馬は地を蹴り、鈴が鳴る】 Il cavallo scalpita
マスカーニ Pietro Mascagni の、
カヴァレリア・ルスティカーナ Cavalleria Rusticana 第一幕の
馬車屋 アルフィオ Alfio 登場のアリア
バリトン : バスティアニーニ Ettore Bastianini
*** ***
Il cavallo scalpita, The horse paws the ground,
I sonagli squillano, The bells ring out,
Schiocchi la frusta. Ehi la! The whip cracks!
Soffi il vento gelido, The cold wind blows,
Cada l'acqua o nevichi, Snow or rain falls,
A me che cosa fa? What's it to me?
M'aspetta a casa Lola Lola waits for me at home,
Che m'ama e mi consola, She loves and consoles me,
Ch'è tutta fedeltà. Completely faithful.
Il cavallo scalpiti, The horse paws the ground,
I sonagli squillino, The bells ring out,
E Pasqua, ed io son qua ! It's Easter, and I am home!
※ 英語訳は、インターネットで拾って来ました。
誰の訳か、知りません。
バリトンの、エットーレ・バスティアニーニは、
若くして亡くなりましたので、とても有名ですが、
咽頭癌と、聞いています。
カヴァレリア・ルスティカーナは、
ベリズモオペラの代表作ですけれど、よく出来た筋書きです。
ベリズモは、
イタリアの現実主義や自然主義の感じの、芸術用語です。
vero って、英語の true です。
事件中心の展開ですので、
人間の心や、数世代に渡る文化の移り変わりなどを、
繊細に、あるいは、じっくりと描く態度とは、かなり違います。
西鶴や近松門左衛門に、似ています。
カヴァレリアは、英語のシバルリ chivalry と同じですから、
三島由紀夫氏の切腹のような、
騎士道や武士道の意味ですけれど、cavallo って、馬です。
ルスティカーナも、
ラスティック rustic や rural と、同じ語源ですから、
素朴で、野暮な、田舎の、という感じ。
性別や格変化の、複雑な言葉は、英語よりも面倒臭いけれど、
使い慣れると、便利かも知れません。
日本語も、漢字を覚えるのに、苦労しましたが、
読まなくても、見るだけで、瞬間的に意味がわかりますから、
欧米の言葉よりも、目が疲れません。
シチリアの恋の顛末(てんまつ)が、男の決闘になる、
というお話です。
妻を寝盗られたので、相手の男を、
殺してしまう馬車屋のアルフィオが、登場します。
まだ、妻の浮気を知りません。
妻は、もともとが、殺されたの男の恋人でしたから、
元の鞘(さや)に、納(おさ)まっただけなのですが…
男が、戦争に行っている間に、女が、馬車屋と結婚しました。
仕方ないので、
男は、別の女性と、仲良くなりましたが、
やはり、元の女性と、縒(よ)りを戻しました。
復縁した、という告げ口を、捨てられた女から聞き、
馬車屋が、決闘を迫り、
拒めない男を、殺す羽目(はめ)になりました。
シチリアは、今でも、こういう人が多いかも、知れません。
貧乏な田舎ですので、笑い者にされると、生きて行けません。
舐(な)められると、みんなに虐(いじ)められます。
多勢に無勢ですから、悲惨です。
殺された男の母親と、捨てられた女の関係に、
シチリアの風土が、よく現れています。
男の浮気は、正当なの。
遊ばれた女のほうが、悪い。
そうでなければ、母親の立つ瀬がなくなります。
女に同情をすれば、村八分にされますけれど、
捨てられた女の気持ちは、よくわかる…
原作は、ベリズモ小説の旗手のような、
ジョヴァンニ・ヴェルガ Giovanni Verga ですから、
マスカーニのオペラの成功は、
単純明快な筋書きに、あるかも知れません。
復活祭は、
セムハム系の過ぎ越しの祀りに、由来していますので、
死んだはずの、イエスキリストが復活したと、
イスラエルのキリスト教徒が、言い出したのは、
目から鱗(うろこ)でした。
春分の日が過ぎると、
エジプトの地中海性気候の、曇り空に代わり、
砂漠の太陽が復活する、という意味でしたけれど、
ヨーロッパ北部の、野蛮人の人たちにとっては、
寒い冬が過ぎて、種まきの春が来た、という喜びの意味でした。
イエスキリストの復活は、
太陽の季節を、祝(ことほ)ぎますが、
エジプトの人たちは、曇り空のほうが、嬉しいのでないかしら。
過ぎ越しの祭りが済めば、ナイルの上流は、雨季になりますから、
下流の水嵩(みずかさ)が増えて、
新しい農耕の季節が、始まります。
それまでに、小麦を収穫して、一年の骨休めをします。
シチリアは、砂漠と似たような土地ですから、
夏が近づくのに、喜んで居られるわけがない。
イエスキリストが復活して、
有難(ありがた)迷惑かも知れません。
諸悪の根源です。
それが証拠に、復活祭の日に、
さっそく、カヴァレリア・ルスティカーナのような事件が、
起こりました。
敬虔なキリスト教徒が、神様を怨(うら)んでいるのは、
アメリカ合衆国に移住したシチリアの人たちが、
マフィアと言われるようになったのを見れば、よくわかります。
そういう意味が、
ジョヴァンニ・ヴェルガの原作に、籠(こ)められていました。
西鶴や近松に、似ていますけれど、
性転換医療に、一番よく似ています。
ヴェリズモオペラのような、医療です。
ヴェリズモの筋書きって、統合失調症にそっくりですけれど、
わかりますか。
話が、早く進行します。
この歌のように、妻の貞節を信じている馬車屋が、
たちまちに、妻の浮気の相手と、決闘をして、
殺してしまいます。
事実関係を調べなくても、良いのかしら。
浮気の相手は、精神障害かも知れません。
他人の、心の変化を、確かめなくても良いのかしら。
実験や検証や再現は、必要ないのかしら。
ヴェリズモは、
写実主義や自然主義や現実主義などと、言われますが、
統合失調症の妄想や幻覚と、区別がつきません。
物的証拠や証言を、収集しない生き方は、
統合失調症と同じです。
論理を運用できなければ、事実は類推されません。
事実は、無意識の自動機械のように、
目や耳からの情報を元に、類推されて、認識されますから、
世間一般の大部分の人が、
目や耳から、自分で認識する事実は、妄想や幻覚と同じです。
世間一般の人の、論理能力は、
中学1年生の国語の読解力問題や、
数学の初歩の問題を、解いてもらえば、すぐにわかります。
中学生1年生と、成人の成績は、同じです。
論理能力は、
言葉を喋れるようになった時に、すでに完成しています。
たぶん、生まれつきですけれど、
言葉を喋れなければ、能力を測れません。
論理能力は、勉強をしても、伸びません。
無駄です。
論理能力と、事実の認識力は、完全に一致しています。
論理や事実を、認識できないのは、
妄想や幻覚や支離滅裂などの、統合失調症の症状と、
まったく同じです。
わたしたちが、目で見て、手で触って、耳で聞いて、
確かに事実を知った、と思っているのは、
習慣的に、無意識の自動機械のように、
瞬時のうちに、論理を実行して、事実を類推しています。
その論理能力と、事実を知る能力とは、同じです。
世間一般の平均的な人が、
確かに、目で見て、耳で聞いて知った内容は、
妄想や幻覚や支離滅裂です。
統合失調症の症状よりも、ひどいのが、普通です。
論理能力の低い人は、統合失調症を発症しません。
世間一般の平均的な人は、
新聞の社会面の、泥棒や火事の記事を読んでも、
あらすじが、わかりません。
試験をすれば、わかっていないことが、簡単に証明されます。
その人たちが、裁判官や裁判員になり、
人や事実を、判断します。
みんな、わかったような顔をして、
判決文を書いたり、記者会見をしたりします。
平均的な人の、国語の読解力が、どの程度のものかは、
試験をすれば、一発でわかりますから、
権力というのは、滑稽なものです。
一人が雄牛の乳を搾れば、もう一人が、笊(ざる)で受けます。
それでも、みんなの事実を違(たが)えないのは、
新聞配達の人が、道筋を覚えて、間違えないのと、同じです。
類推しても、知らない道筋は、わかりません。
どの道を行き、どの家に、新聞を配るかって、
教えられなければ、知っているはずがありません。
覚えたのに、決まっていますけれど、
一回で、1千軒を、覚えてしまいます。
社会の底辺の人でも、
健常な人は、みんな、それくらいの能力を、発揮します。
山下清という貼絵の画家の超能力や、
プロ棋士が、盤面を覚える能力って、
そのへんの新聞配達の人の能力と、ちっとも変わりません。
どうして、統合失調症の人は、
みんなの道筋を、覚えないのかしら。
目や耳の知覚のように、
無意識の自動機械が、自分で類推した事実しか、信じません。
論理能力が低ければ、自分で類推できるわけがないのに…
新聞配達の道筋なんか、類推しても、わかるわけがないのに…
統合失調症の人は、
文化的に、みんなの事実として指定された度合いに、
脳の中の化学物質のくっつき方を、一定に保てません。
統合失調症の人が、新聞配達をすると、
みんなと同じように、一回で一千軒を覚えてしまいます。
それなのに、どうして、
みんなの事実を、覚えられないのかしら。
目や耳の知覚のように、
無意識の自動機械が、自分で類推した事実しか、信じないのが、
原因なの。
自分が直接に、目で見て、耳で聞いて、確かに知った事実しか、
信じません。
だから、妄想や幻覚や支離滅裂の通りに、実行してしまいます。
論理能力が低ければ、
妄想や幻覚や支離滅裂になるのは、当たり前です。
どれくらいに、低ければ、
自分一人の、妄想や幻覚や支離滅裂と言われ、
どれくらいに、高ければ、
みんなの正しい事実と、言われるかって、
切りがありません。
どれくらいに、知能が高ければ、賢いと言われるのかは、
相対的です。
昔の人間は、いくら賢くても、猿でした。
将来の人間は、精神遅滞と言われても、
今のノーベル賞よりも、賢いかも知れません。
コンピュータは、
自分一人の事実や、みんなの事実などを、知らなくても、
定義された通りに、判断を実行します。
人間も、文化を習わなければ、言葉さえ喋れません。
定義の通りに判断するのは、数学と同じです。
定義って、コミュニケーションの仕組みでしょう?
統合失調症の人は、
事実が、コミュニケーションのためのメディアであることを、
知っているくせに、釈然としません。
知らないよりは、知能が高いのですが…
メディアって、
言葉のように、コミュケーションを媒介するための、手段です。
事実ってのが、それなの。
統合失調症の人が、
自分の目で見て、手で触って、耳で聞いたことを、
神様のように、確かに信じるのは、変(へん)なの。
論理能力が低ければ、
自分だけの、妄想や幻覚や迷信などを、頑固に信じるのと、
同じ結果になります。
化学物質のくっつき方を、文化的に指定された度合いに、
一定に保つ能力は、みんなと一緒のことをする能力と、
同じです。
統合失調症の人だけでなく、
精神の病気の人は、一般的に、その能力が低い。
ジョヴァンニ・ヴェルガは、
4人の統合失調症の病人を、描いたのかも知れません。
社会の底辺の、代表です。
ヴェリズモの意味が、だんだんと、わかって来ませんか。
どうして、田舎の騎士道と、名付けられたのかしら。
三島由紀夫氏が切腹をして、
御本人は、自己主張を押し通したつもりでしたが、
欧米の小説家は、おおむね、彼の評価を下げました。
馬脚を露(あら)わした感じなの。
カヴァレリア・ルスティカーナという題名に、
それに似たような意味が、籠(こ)められています。
性転換医療の、馬脚が見えないようでは、
お医者さん失格かも知れません。
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