薺(なずな)の種類の見分け方を、小学生の頃に覚えましたが、
忘れました。
すみません。
ただの薺(なずな)に、して置きます。
それにしても、難しい漢字です。
老眼になると、思い知ります。
ナズナの写真は、
たいてい、平べったい三角形の実が、写っていますが、
さすがに、この時期には、まだ、実が付いていません。
今年の最初の花を、咲かせました。
ほんとは、12月頃から、花を咲かせている個体も、ありますけれど、
このナズナは、正直でした。
見た通りに、食べられますから、
嘘偽(うそいつわ)りなく、春の七草です。
美味(おい)しそうでしょう?
昔々、うちの鶏(にわとり)は、
地面のナズナを、生(なま)で、食べていました。
当たり前ですが、その鶏を食べたのは、わたしです。
その頃から、
どうして、人間は、人間を食べないのかと、奇異に思っていました。
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統合失調症やGID(性同一性障害)などの、精神の病気は、
多数派のみんなと一緒のことが、できるようになれば、治リます。
でも、生まれつきに出来ないだけでなく、これからも出来ません。
多分、いくら努力しても、出来ません。
精神の病気の人たちと、一緒に暮らすには、
出来ない事を、しろと強要して、
嘲け笑ったり、こき使ったり、虐(いじ)め殺したりするのでなく、
出来る人たちが、出来ない人たちに、合わせなければいけません。
能力の低い人たちを、許容するのでなく、
能力の高い機能を、禁じて、低い能力の中から、
みんなの価値を、見つけ出さなければいけません。
そんなことをすれば、人類は、事実を見失い、科学技術を忘れて、
だんだんと、他の哺乳類のように、落ちぶれるであろうと、
心配する人は、あほです。
科学技術を作る数学のように、事実を作る論理のせいで、
人間が、他の生物よりも繁栄した、という証拠は、皆無です。
論理って、たくさんの人に共通の、
多数派の脳の、神経や化学物質などの、繋がり方やくっつき方です。
論理と言われる価値は、テリヤやプードルのように、
文化的な取捨選択により、品種改良をされて、純化された形質です。
事実と言われる認識の中身や、科学技術と言われる実行の中身を、
人間は、同族の血筋や、先祖の神様のように、信奉します。
宗教的な確信が、
ギリシャ・ローマ主義や、フランス革命や進化論や、
弁証法やマルクス・レーニン主義などに、現れています。
ダックスフンドや秋田犬に近い日本人も、
テリヤやプードルを信じたほうが良い、という理由は、ありません。
知的障害者のような、能力の低い人たちと、一緒に暮らせば、
すぐにわかります。
出来ない人に、しろと言うのは、虐待です。
知的障害は、いくら努力をしても、死ぬまで治りません。
この人たちと一緒に暮らすには、
出来る人たちが、してあげなければいけませんが、
出来る人が、一方的に、してあげるだけの、社会や心は、
すぐに潰(つぶ)れます。
出来る能力と、出来ない能力との、差の出る機能に、
わたしたちの社会や心は、依存してはいけません。
そのような機能や能力は、良くないので、捨てるべきです。
そうしなければ、必ず、殺して間引いて、共食いをするための、
残虐な社会や心になります。
日本人が、欧米から学んだ文化は、うんこやおしっこのように、
よく発酵をさせて、寄生虫を除去してから、
土に撒(ま)くのが、正解でした。
お医者さんのような生肥(なまごえ)を撒くと、心が枯れます。
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