春になると、ミモザを貼り付けてしまいます。
そこらじゅう、桜の淡いピンクでしょう?
黄色のミモザが欲(ほ)しくなります。
銀葉(ぎんよう)アカシアです。
小葉の数が少なく、
銀色っぽく見える葉は、複葉全体の長さが、3~5cmぐらいで、
比較的、硬く小さく、しっかりとしています。
日本では、小葉の数の多い房(ふさ)アカシアも、
ミモザと言われて、普通に植栽されています。
房(ふさ)アカシアは、
複葉全体の長さが、8~13cmくらいもあり、
草の葉のように、柔らかです。
複葉(ふくよう)って、たくさんの小葉から成り、
全体として、葉っぱが一枚と、数(かぞ)えます。
アカシアの類は、500種類以上もあるそうですが、
日本には、指折り数えるほどしかありません。
ミモザと言われる球状の花を持つものは、すべて外国産です。
ネムの木の仲間ですので、
日が翳(かげ)り、暗くなると、葉を閉じます。
銀葉(ぎんよう)アカシアの葉が閉じているのを、
見たことがありませんけれど、
社会の規則は、みんなに共通であるにもかかわらず、
プライベートな趣味や、家庭の仕来たりなどは、
それぞれの自由でも、構いません。
個人の食事の献立は、法律に規定されていませんし、
家庭の中で、真っ裸で暮らしていても、法律に違反しません。
性別や生殖も、人それぞれの自由の範囲内なので、
性転換は、病気や障害でなく、
個人の生きかたや、自由な考え方などであると、
主張するGID(性同一性障害)の人もいます。
健常な人ばかりが生まれて来るのでなく、
人は生まれながらにして不平等ですので、
障害を持って生まれて来た人たちや、病気の人たちは、
生まれながらの性別や生殖に拘(こだわ)らずに、
生きたいように生きる特権を与えられるべきであると、
主張するGID(性同一性障害)の人もいます。
世間一般には、みんなの規則を守って生きるのが、
健常であり、かつ善良であると、されます。
規則を守れない事情があるのでしたら、
証拠にもとづいて、それぞれの人の事情が考慮されます。
証拠がないのに、心が規則を守れない、と言うのは、
みんなの規則を破る犯罪でなければ、心の病気や障害です。
GID(性同一性障害)の人たちは、
望みの性別のお風呂や、おトイレや、更衣室などを、使いたいと、
要望します。
もちろん、許可を得ないで、勝手に使用すれば、犯罪です。
多くは、GIDと診断されなければ、許されませんので、
精神疾患であるなら、特別に認めましょう、とするのが、
世間の多数派の考え方です。
簡単に言うなら、心の病気でしたら、仕方ありませんけれど、
そうでなければ、認めないと、世間は言います。
GID(性同一性障害)という心の病気の人が、
生殖機能を壊して、性器の見てくれを変形すれば、
戸籍の性別を変更してもらえますので、
一々、許可を得なくても、変更後の戸籍の性別の通りに、
お風呂も、おトイレも、更衣室も、使えます。
当たり前の、現在の事情ですけれど、
GIDは、病気や障害でなく、自由な生き方や考え方である、
とする意見と、大きく異なります。
むしろ、心の病人や障害者に限り、性別や生殖の規制を免除する、
とする意見に、近いと思います。
健常な人たちには、性別や生殖って、自由でありません。
みんなの規則を守るように、要求されています。
性別だけでなく、生殖もそうです。
当たり前ですけれど、生殖をしなければ、人類は絶滅します。
社会って、生殖を前提として、成り立っています。
体や心の病気や障害などのせいで、
生殖のできない人には、仕方ないとして、強要はしませんけれど、
健常でありながら、結婚をしないで、子供もいない人って、
遊び人として、軽く扱われます。
どうしても、体や心の、病気や障害を、言い訳にしなければ、
一人前には、扱ってもらえません。
生殖が、けっして、自由でないのは、
人間だけでなく、生物は、みんなそうですけれど、
そのことを、本能と言うこともあります。
世代交代をするために、生きている、と言います。
自由という考え方は、どこからも出てきません。
だって、生殖しなければ、絶滅するもん。
でも、本能ってのは、それだけでなく、
生殖をして、世代交代をしなければ、生物でない、と言っています。
病気や障害なら、生殖をしなくても、生物ですが、
そうでなければ、生殖をしないのは、生物でありません。
生物の生きている姿って、全部、世代交代の具体的な中身なの。
本能って、アリストテレスの考え方ですけれど、
進化論の考え方でもあります。
精神医学では、フロイトや精神分析などの、わりと昔の考え方です。
それに代わるような、今の考え方は、
まだ、大筋(おおすじ)が出来ていません。
自由って、個人主義でしょう?
国家や民族の自由などと、言えないこともありませんけれど、
やっぱり、変です。
人間のことは、神様だけが責任を持つことができる、
という考え方に対して、
個体が、一匹ずつ、責任を持つことができる、とするから、
自由という考え方が、引っ張り出されて、
うんこのように、とぐろを巻いています。
神様や、その代理人の王様などは、要らんから、殺してしまえ、
と言いたいがために、
個人は責任を持つことができる、と主張しました。
革命を吹聴するための、屁理屈でした。
個人には自由がある、としなければ、責任を持てません。
神様や自然が、個体や、個体の行動を作ったのでしたら、
個人に、自由なんか、ありませんけれど、
人間社会や人間の心は、神様や自然が作ったのでなく、
個人が、みんなで寄って集(たか)って作った、と考えます。
なんとなく、個人の自由や責任などの考え方は、
個人の自由にならない自然の成り行きの上に乗っかっていますから、
すごく限定的です。
電車に乗っている人は、電車に運ばれていますので、
自由に移動できませんけれど、
車両の中を、自由に移動できます。
GID(性同一性障害)って、
自然の成り行きに、病気や障害があるかも知れません。
それでも、その上に乗っかっているGID個人には、
自由や責任があると、考えました。
どれくらい、責任があるかってのと、どれくらい自由かってのとは、
たぶん、同じことを、別の言葉で表現しているだけです。
地球の上に乗っかっている電車や人間は、
どれくらい自由なのかしら。
これって、ヨーロッパの考え方ですけれど、
仏教みたいに、古代インドの考え方でも、
やっぱり、日本人には、しっくりと行かないかも知れません。
だって、ヨーロッパ人やユダヤ人やインド人は、
日本人と、顔や言葉が違うんだもん。
電車の中を歩いている歩行者のために、
車両の廊下に、信号機を設置することは、あり得ますが、
回転する地球のために、横断歩道を設置するのは、滑稽です。
GID(性同一性障害)の人が、その違いを見分けるのは、
同性愛のような、男女の好き嫌いの仕組みと、
性別を差配(さはい)するための、脳の生理的な仕組みとが、
一応、別枠(べつわく)であることを知るのと、
似たようなものです。
心身症の人には、嫌(いや)なことを予感しただけで、
たちまち、40度の熱を出し、
嫌なことが去ると、すみやかに平熱に戻る人もいます。
その人は、実際に熱が出ていることを、動かしがたい証拠にして、
嫌なことを避ける人生を、幼児の頃に覚えましたが、
後に統合失調症を発症しました。
GID(性同一性障害)も、
内因性と言われる仕組みが、基礎疾患の中にありそうですが、
いまのところ、脳の微細な異常を、発見できません。
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