山茱萸(さんしゅゆ)って、
早咲きの木は、もう、ずーっと前に、咲き始めていますけれど、
今は、どの木も、一斉に咲き始めていいますので、本格的です。
まだ、完全には開いていませんけれど、もう、待ちきれません。
エステティックが論理的でないのは、誰でも知っていますが、
個人主義も、欧米の近代文化の大前提です。
個体という見かけにより、自然の仕組みを区切ろうと言うのですから、
エステティックな判断の大本山と言っても構いません。
個人主義は、明治維新の頃から、日本人には不可解でしたが、
審美主義や美学などと翻訳されるエステティックな価値観が、
個人主義の根本であるとは、気づきませんでした。
動物の感情と同じでないかと、日本人は思いましたが、
心は脳によって運営される、と言われると、
摩訶不思議でありますが、なるほどと思ってしまいました。
脳味噌は、確かに、個体ごとに独立しています。
でも、脳味噌って、
個体の内側の、情報の伝達を支配しているだけでなく、
個体の外側の、他の個体や社会との、情報の伝達をも支配しています。
コミュニケーションと言いますが、
脳は、コミュニケーションのための臓器である、とするなら、
統合失調症の患者さんの言うように、
脳の機能は、その個体の支配下にない、と考えたほうが、
合理的かも知れません。
実際、人間が、猿よりも強くなるのは、
3才以降の、他人とのコミュニケーションによります。
それまでは、同い年でも、猿のほうが兄貴分で、
人間の子供は、子分のように、猿の尻馬に乗るばかりです。
他人とのコミュニケーションにより、
人間の個体は、言葉に表された膨大な文化を学ぶから、
猿よりも強くなります。
賢くなった、と思うのは、
たんなる人間の自惚(うぬぼ)れにすぎませんが、
連帯行動や協調行動により、
他の多くの個体の力を、笠に着て強くなり、
嵩(かさ)に懸かるように、自分は賢いと、自惚れます。
脳が、他の多くの個体との、
コミュニケーションのための臓器であるなら、
必ずしも、その一つの個体の支配に属しているとは、限りません。
コミュニケーションによって得られる情報の多くが、
文化と言われる共通の情報や、
情報を仕訳(しわけ)して整理するための、
価値と言われる共通の判断の仕方だからです。
このプログラムの中に、エステティックな価値があり、
個体を、判断の単位にするだけでなく、
顔や体の見てくれにより、
個体の善悪や優劣や真偽などを判断します。
エステティックな判断は、動物的でないかと、日本人は感じます。
ギリシャ・ローマの文化は、合理的であったけれど、
インドや中国を支配できなかったではないか。
とりわけ、中国や日本を征服できなかったのは、
距離が遠かったのでなく、
欧米のエステティックな判断の不合理でないかと、疑われます。
白人は、人間以外の自然を、論理と一致するように、
合理的に判断しましたが、
人間や人間社会のことを、論理と一致するように、
合理的に判断したのは、むしろ中国や日本でなかったかと。
古代ギリシャ・ローマは、
人間や人間社会を、エステティックに判断しましたが、
論語には、子(し)は怪力乱神(かいりょくらんしん)を語らず、
と書かれています。
メソポタミアの文化や、
古代ギリシャの民主制やキリスト教には、
すでに、個人主義の傾向が強く現われています。
産業革命やフランス革命よりも、
わたしは、遥かに乾燥した砂粒の匂いを、
個人主義に感じます。
星の王子さまの、
サンテグジュペリの夢のようなものかしら。
ルネサンスのイタリアに、
解剖学や、アリストテレスの著作などを伝えたのも、
アラビア人でした。
人間を、牛や豚のお肉のように解体すると、
確かに、一人一人の人間の個体は、
砂漠の砂のように、孤立しています。
中国や日本では、雨が多く、
とりわけ、日本では、砂漠の砂粒は珍しく、
土は、たいてい、粘土のように繋がっています。
モンモリロンやカオリンのような、粘土鉱物を見ると、
わたしは、脳のコミュニケーション機能を連想します。
なでしこジャパンを見れば、一目瞭然ですが、
日本の社会は、コミュニケーションの緊密さが特徴です。
欧米の社会は、個人主義で行きますので、
エステティックに人間の精神を評価しますが、
人間の心や社会の評価は、
日本的であるほうが合理的かも知れません。
人間の心や社会以外の自然の評価は、
欧米のほうが得意でしょうから、
漢方薬は、あまり信じないほうが良いかも知れません。
でも、性転換というエステティックな考え方により、
精神を治療しようとするのは、おそらく間違っています。
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