七夕さまの笹って、幼稚園でしか見なくなりました。
心身ともに健康にっていう短冊もあります。
GIDの精神って、そのころまでに、変(へん)とわかります。
1才未満に気づくお母さんもいますけれど、
軽症の発達障害ですので、難しいかも。
統合失調症って、一つの病気として纏めるのが、便利と思いますか?
この纏め方は、抗精神病薬というお薬のなかった時代のものを、
薬物療法が中心になった現在も、引き継いでいます。
ロボトミーという脳味噌を切る手術の時代もありましたけれど、
現在の薬物療法も合わせて、、
いずれも、脳味噌の健常な機能と、異常な機能の、両方を、
わざと機能不全にして、治療の代わりとします。
ロボトミーの場合は、脳味噌を切断してしまいますから、
二度と回復しませんけれど、
抗精神病薬でしたら、短期間のうちに、お薬をやめると、回復します。
病気のほうも、再び悪化しますけれど。
お薬を飲んで、興奮が鎮静すると、患者さんは明るくなります。
器質的な原因や仕組みの、わかっていない現在では、
統合失調症を、一つの病気とするのが、便利かどうかって、
精神運動興奮という症状と、それ以外の症状とを、
統合失調症として、いっしょくたにするのが、
便利かどうかって意味です。
抗精神病薬って、精神運動興奮と、その二次的な症状にしか、
効きません。
患者さんのほとんどは、
精神運動興奮をきたしてから、統合失調症と診断されますけれど、
それ以前から、たくさんの症状の現れているのが、普通です。
でも、本人も、周囲の人も、
ちっとも苦しくなければ、受診するわけがありません。
小学低学年の子供が、誰かに話しかけられていると言って、
お母さんに連れて来られることもあります。
誰かに見られていると言う子供もいます。
ゲーテのファウストのように、
メフィストフェレスという悪魔と取引をする人生の人が、
世の中には、たくさんいます。
ファウストのように過ごせば、どうせ受診するとは思えません。
幻聴があるからと、お母さんに連れて来られても、
それだけでは、精神の病気でありません。
実は、誰でも幻聴があるのに、
健常な人は気づいていないと、言う人もいます。
自問自答や、予想されるシミュレーションや、
自作自演の想像のようなものなのに、
心の中で、自分一人で思ったに過ぎないと、気づかないのは、
明らかに精神の病気である、と言う人もいますけれど、
それに気づかないファウストのような人も、たくさんいて、
気づいている人よりも、遙かに優れた人であることが、
少なくありません。
自我と言われる人間の意識って、
意志と責任や、事実の因果関係などの、
時間に関する自己同一性と言われる特徴と、
個体の中の情報を、客観的に整理編集する規則として、
他の個体との情報伝達の規則を使うような、
境界性と言われる精神の免疫機能とも言うべき特徴とが、
他の動物よりも、奇妙に目立ちます。
個体の脳の中で起こった事を、
自分で思っただけとしか自覚できない人は、頭が悪い、
と言う人もいます。
未来の事や、居合わせていない過去の事などを、
想像したり、シミュレーションしたりするのは、
自分一人で自作自演するように考えているのでなく、
文化という他人の脳味噌の産物との合作ですので、
誰かの声が聞こえて来たり、
自分の脳の中の情報が、誰かに読み取られたりすると思うのは、
精神の病気でないそうです。
確かに、個人の自我は、たくさんの人の合作ですから、
たくさんの人の、共有の文化であるとするのは、間違っていません。
個体の体という装置が、文化を実演しているだけです。
それが自我かも知れません。
わたしなんか、NHKのテレビ番組に出ている学者さんの話を聞き、
よそのチャンネルに切り替えて、
うちの娘みたいなアナウンサーの話を聞くと、
ああ、学者さんとアナウンサーの二人が、
わたしの体の脳味噌という装置を、無料で使ってくれて、
辻褄(つじつま)の合わないことを、会話しているって、感じます。
二人の会話を聞いているだけで、
わたしの脳味噌に、たくさんの人が群がってくるような気がして、
テレビの影響力って、大きいなあと、感心します。
わたしの脳味噌を、公共の装置のように、
誰でも勝手に使ってくれます。
無料です。
わたしも、人の脳味噌を、勝手に使っていますから、
わたしって誰か、と問われても、
みんなのような気がするだけです。
殺し屋さんもいれば、精神の病気の人も、
自惚(うぬぼ)れ屋さんのお医者さんも、
戦場を逃げ回っている人も、病室に閉じこもっている人も、
生まれたばかりの赤ちゃんも、
商売をしているエスキモーの人もいます。
みんな、わたしの脳味噌を使っているのですから、
わたしって、使っているみんなと、たぶん同じです。
GID(性同一性障害)って、一つの病気として纏めるのが、
便利と思いますか?
性転換を正当化しようとするマスコミの人やGIDの人は、
自分の心の性別が、体の性別と違っていて、
心は、絶対に体の性別を受け入れられないから、
性ホルモン剤や手術などによって、
体の生殖機能や性器の外観などを、
自分から破壊することを、
自分の心を受け入れると、表現します。
GIDっていう病気になって、性転換することは、
自分を受け入れることだそうです。
良いことなんだそうです、病気になることが。
自分の心の性別は、体の性別と違う、という事実を、
受け入れなければならないそうです。
素直(すなお)に、
自分を受け入れることができるようになれば、
性転換をすることができるようになります。
それが、心の成長だそうです。
それですと、GIDの半分の人が、発症後25年以上たつと、
認知障害がひどくなって、社会生活ができなくなる事実と、
異なります。
GIDの残りの半分の人は、性転換をしても、しなくても、
発症後25年以上たつと、
体の性別が男であろうと、女であろうと、
心は、どちらの性別にも適応できると、
自覚するようになります。
GID(性同一性障害)や、性転換を、
良いものと思い続ける人は、GID全体の1%にすぎません。
その人たちは、
GIDや性転換を、売り物にして、生計を立てている人か、
さもなければ、御両親がお金持ちだった人です。
ようするに、無限連鎖講の親になる1%の人だけが、
食い逃げをして、
残りの人には、
災難や後遺症だけが、残るのかも知れません。
性転換することを、自分を受け入れると、表現するのは、
自殺することを、自分を受け入れると、言うのと、
同じような意味です。
性転換って、生殖拒否の一種ですけれど、
自殺を希釈した意味が、生殖拒否にはあります。
緩慢な自殺です。
QOL(生活の質)を、大切にしているのかも知れません。
末期癌の患者さんに、麻薬を使って、
死ぬまで、好きなことをして、楽にしてもらう終末医療は、
QOLを大切にします。
実際には、GID(性同一性障害)っていう精神疾患を、
美化する人たちって、GIDや同性愛の御本人を除けば、
GIDが新興宗教のように、
仲間内の社会に引き込まれてから、
その教義に命を賭けようと、性転換の心を決める事実を、
知らないみたいなの。
心を決めると、、
子供の頃から、性別が違うと思っていた、と言い出します。
自分を受け入れるって、だれが流行させたのかしら。
変な言葉です。
だって、わたしの心の中では、
自分って、みんなや、周囲の世界全部のことだもの。
自分を褒めてあげるって、
高石ともやって人の言葉ですけれど、
御家族の事情から、
精神障害のことを、たいへんよく御存知の人でした。
宗教が障害者の心を、慰めてあげるような言葉ですから、
キリストさんや、お釈迦さんの言葉に、似ています。
女子マラソンの人が、彼の言葉を真似(まね)ていました。
障害者の心を慰撫してあげるって、
いつも、詐欺みたいなものです。
こうでもしないと、投げやりになって、腐ります。
こんなことを書くから、怒られますけれど…
障害者って、次から次へと、生まれてきますから、
誤魔化したくなる気持ちは、わかりますけれど、
GIDって、半分は治るのに。
なんで、体の破壊を、美化するのかしら。
治らない種類の不妊症から、レスビアン経由で、
FtM(female to male 女→男)のGIDになるとか、
インポテンツから、MtFとか、
もう子供がいて、御用済みだから、
性腺や性器を、廃棄処分にするとかって、
自分の心を受け入れることなのかしら。
性別って、生殖のためにありますから、
生殖をしないのでしたら、性別は必要ありません。
性別って、二種類の生殖機能を言っていますけれど、
人間は、生殖機能の種類を、文化的に表示します。
服装や言葉遣いや、態度振る舞いや、持ち物や、表情や髪型などね。
男女を識別するための指標ですけれど、
生殖機能の種類を、意図的に表す印ですから、
当然、性別の表示って、世代交代を目指すための、生殖活動です。
生殖を拒否して、男女の性別の不要な人たちが、
生殖のための文化的指標を使うのは、詐欺のようなものです。
たぶん、生殖のための男女の文化は、
生殖をしない文化と、明確に違ったものであるのが、合理的です。
同じものを共有する必要性がありませんので、
詐欺のように紛らわしいものを、忌避するようになります。
たとえば、お風呂屋さんに行くと、
女性用のお風呂と、男性用のお風呂の間に、
LGBT(レズ・ゲイ・バイ・トランスジェンダー)用の、
お風呂ができるとかね。
有性生殖をする男女と、有性生殖を拒否するLGBTとが、
同じ有性生殖用の男女の文化を、
共用しなければいけない理由がありますか。
LGBT自身が、健常な男女から隔離されようとして、
社会運動を行なっているって、やがて、わかるようになります。
性別は、生殖のためにありますから、
生殖をしないのなら、性別は要りません。
こんなのは、自明の理です。
生殖しないのに、
男女の文化という生殖のための文化を使う必要はありません。
LGBTの人たちの運動は、あたりまえの文化にしろと、訴えています。
たぶん、その通りになると思います。
性交渉を楽しむだけなら、
生殖向きの性別の文化に、こだわる必要はありません。
正しい生殖のための男女の文化は、
顕微鏡の下で、精子と卵(らん)をくっつけるような、
奇麗な文化になります。
現代の原始的な男女の文化は、
LGBTのように、生殖を拒否する人の心に、
風化した遺物のように、伝えられると思います。
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