七夕 517 自分の心を受け入れる

七夕さまの笹って、幼稚園でしか見なくなりました。
心身ともに健康にっていう短冊もあります。
  
GIDの精神って、そのころまでに、変(へん)とわかります。
1才未満に気づくお母さんもいますけれど、
軽症の発達障害ですので、難しいかも。
 
 
 
統合失調症って、一つの病気として纏めるのが、便利と思いますか?
この纏め方は、抗精神病薬というお薬のなかった時代のものを、
薬物療法が中心になった現在も、引き継いでいます。
 
ロボトミーという脳味噌を切る手術の時代もありましたけれど、
現在の薬物療法も合わせて、、
いずれも、脳味噌の健常な機能と、異常な機能の、両方を、
わざと機能不全にして、治療の代わりとします。
 
ロボトミーの場合は、脳味噌を切断してしまいますから、
二度と回復しませんけれど、
抗精神病薬でしたら、短期間のうちに、お薬をやめると、回復します。
病気のほうも、再び悪化しますけれど。
 
お薬を飲んで、興奮が鎮静すると、患者さんは明るくなります。
 
器質的な原因や仕組みの、わかっていない現在では、
統合失調症を、一つの病気とするのが、便利かどうかって、
精神運動興奮という症状と、それ以外の症状とを、
統合失調症として、いっしょくたにするのが、
便利かどうかって意味です。
 
抗精神病薬って、精神運動興奮と、その二次的な症状にしか、
効きません。
患者さんのほとんどは、
精神運動興奮をきたしてから、統合失調症と診断されますけれど、
それ以前から、たくさんの症状の現れているのが、普通です。
 
でも、本人も、周囲の人も、
ちっとも苦しくなければ、受診するわけがありません。
小学低学年の子供が、誰かに話しかけられていると言って、
お母さんに連れて来られることもあります。
誰かに見られていると言う子供もいます。
 
ゲーテのファウストのように、
メフィストフェレスという悪魔と取引をする人生の人が、
世の中には、たくさんいます。
ファウストのように過ごせば、どうせ受診するとは思えません。
 
幻聴があるからと、お母さんに連れて来られても、
それだけでは、精神の病気でありません。
実は、誰でも幻聴があるのに、
健常な人は気づいていないと、言う人もいます。
 
自問自答や、予想されるシミュレーションや、
自作自演の想像のようなものなのに、
心の中で、自分一人で思ったに過ぎないと、気づかないのは、
明らかに精神の病気である、と言う人もいますけれど、
それに気づかないファウストのような人も、たくさんいて、
気づいている人よりも、遙かに優れた人であることが、
少なくありません。
 
自我と言われる人間の意識って、
意志と責任や、事実の因果関係などの、
時間に関する自己同一性と言われる特徴と、
個体の中の情報を、客観的に整理編集する規則として、
他の個体との情報伝達の規則を使うような、
境界性と言われる精神の免疫機能とも言うべき特徴とが、
他の動物よりも、奇妙に目立ちます。
 
個体の脳の中で起こった事を、
自分で思っただけとしか自覚できない人は、頭が悪い、
と言う人もいます。
 
未来の事や、居合わせていない過去の事などを、
想像したり、シミュレーションしたりするのは、
自分一人で自作自演するように考えているのでなく、
文化という他人の脳味噌の産物との合作ですので、
誰かの声が聞こえて来たり、
自分の脳の中の情報が、誰かに読み取られたりすると思うのは、
精神の病気でないそうです。
 
確かに、個人の自我は、たくさんの人の合作ですから、
たくさんの人の、共有の文化であるとするのは、間違っていません。
個体の体という装置が、文化を実演しているだけです。
それが自我かも知れません。
 
わたしなんか、NHKのテレビ番組に出ている学者さんの話を聞き、
よそのチャンネルに切り替えて、
うちの娘みたいなアナウンサーの話を聞くと、
ああ、学者さんとアナウンサーの二人が、
わたしの体の脳味噌という装置を、無料で使ってくれて、
辻褄(つじつま)の合わないことを、会話しているって、感じます。
 
二人の会話を聞いているだけで、
わたしの脳味噌に、たくさんの人が群がってくるような気がして、
テレビの影響力って、大きいなあと、感心します。
 
わたしの脳味噌を、公共の装置のように、
誰でも勝手に使ってくれます。
無料です。
わたしも、人の脳味噌を、勝手に使っていますから、
わたしって誰か、と問われても、
みんなのような気がするだけです。
 
殺し屋さんもいれば、精神の病気の人も、
自惚(うぬぼ)れ屋さんのお医者さんも、
戦場を逃げ回っている人も、病室に閉じこもっている人も、
生まれたばかりの赤ちゃんも、
商売をしているエスキモーの人もいます。
みんな、わたしの脳味噌を使っているのですから、
わたしって、使っているみんなと、たぶん同じです。
 
     GID(性同一性障害)って、一つの病気として纏めるのが、
     便利と思いますか?
     性転換を正当化しようとするマスコミの人やGIDの人は、
     自分の心の性別が、体の性別と違っていて、
     心は、絶対に体の性別を受け入れられないから、
     性ホルモン剤や手術などによって、
     体の生殖機能や性器の外観などを、
     自分から破壊することを、
     自分の心を受け入れると、表現します。
 
     GIDっていう病気になって、性転換することは、
     自分を受け入れることだそうです。
     良いことなんだそうです、病気になることが。
 
     自分の心の性別は、体の性別と違う、という事実を、
     受け入れなければならないそうです。
     素直(すなお)に、
     自分を受け入れることができるようになれば、
     性転換をすることができるようになります。
     それが、心の成長だそうです。
 
     それですと、GIDの半分の人が、発症後25年以上たつと、
     認知障害がひどくなって、社会生活ができなくなる事実と、
     異なります。
 
     GIDの残りの半分の人は、性転換をしても、しなくても、
     発症後25年以上たつと、
     体の性別が男であろうと、女であろうと、
     心は、どちらの性別にも適応できると、
     自覚するようになります。
 
     GID(性同一性障害)や、性転換を、
     良いものと思い続ける人は、GID全体の1%にすぎません。
     その人たちは、
     GIDや性転換を、売り物にして、生計を立てている人か、
     さもなければ、御両親がお金持ちだった人です。
 
     ようするに、無限連鎖講の親になる1%の人だけが、
     食い逃げをして、
     残りの人には、
     災難や後遺症だけが、残るのかも知れません。
 
     性転換することを、自分を受け入れると、表現するのは、
     自殺することを、自分を受け入れると、言うのと、
     同じような意味です。
 
     性転換って、生殖拒否の一種ですけれど、
     自殺を希釈した意味が、生殖拒否にはあります。
     緩慢な自殺です。
     QOL(生活の質)を、大切にしているのかも知れません。
     末期癌の患者さんに、麻薬を使って、
     死ぬまで、好きなことをして、楽にしてもらう終末医療は、
     QOLを大切にします。
 
     実際には、GID(性同一性障害)っていう精神疾患を、
     美化する人たちって、GIDや同性愛の御本人を除けば、
     GIDが新興宗教のように、
     仲間内の社会に引き込まれてから、
     その教義に命を賭けようと、性転換の心を決める事実を、
     知らないみたいなの。
 
     心を決めると、、
     子供の頃から、性別が違うと思っていた、と言い出します。
     
     自分を受け入れるって、だれが流行させたのかしら。
     変な言葉です。
     だって、わたしの心の中では、
     自分って、みんなや、周囲の世界全部のことだもの。
 
     自分を褒めてあげるって、
     高石ともやって人の言葉ですけれど、
     御家族の事情から、
     精神障害のことを、たいへんよく御存知の人でした。
     宗教が障害者の心を、慰めてあげるような言葉ですから、
     キリストさんや、お釈迦さんの言葉に、似ています。
     女子マラソンの人が、彼の言葉を真似(まね)ていました。
 
     障害者の心を慰撫してあげるって、
     いつも、詐欺みたいなものです。
     こうでもしないと、投げやりになって、腐ります。
     こんなことを書くから、怒られますけれど…
 
     障害者って、次から次へと、生まれてきますから、
     誤魔化したくなる気持ちは、わかりますけれど、
     GIDって、半分は治るのに。
     なんで、体の破壊を、美化するのかしら。
     
治らない種類の不妊症から、レスビアン経由で、
FtM(female to male 女→男)のGIDになるとか、
インポテンツから、MtFとか、
もう子供がいて、御用済みだから、
性腺や性器を、廃棄処分にするとかって、
自分の心を受け入れることなのかしら。
     
性別って、生殖のためにありますから、
生殖をしないのでしたら、性別は必要ありません。
性別って、二種類の生殖機能を言っていますけれど、
人間は、生殖機能の種類を、文化的に表示します。
服装や言葉遣いや、態度振る舞いや、持ち物や、表情や髪型などね。
 
男女を識別するための指標ですけれど、
生殖機能の種類を、意図的に表す印ですから、
当然、性別の表示って、世代交代を目指すための、生殖活動です。
 
生殖を拒否して、男女の性別の不要な人たちが、
生殖のための文化的指標を使うのは、詐欺のようなものです。
 
たぶん、生殖のための男女の文化は、
生殖をしない文化と、明確に違ったものであるのが、合理的です。
同じものを共有する必要性がありませんので、
詐欺のように紛らわしいものを、忌避するようになります。
 
たとえば、お風呂屋さんに行くと、
女性用のお風呂と、男性用のお風呂の間に、
LGBT(レズ・ゲイ・バイ・トランスジェンダー)用の、
お風呂ができるとかね。
 
有性生殖をする男女と、有性生殖を拒否するLGBTとが、
同じ有性生殖用の男女の文化を、
共用しなければいけない理由がありますか。
 
LGBT自身が、健常な男女から隔離されようとして、
社会運動を行なっているって、やがて、わかるようになります。
性別は、生殖のためにありますから、
生殖をしないのなら、性別は要りません。
こんなのは、自明の理です。
 
生殖しないのに、
男女の文化という生殖のための文化を使う必要はありません。
LGBTの人たちの運動は、あたりまえの文化にしろと、訴えています。
 
たぶん、その通りになると思います。
性交渉を楽しむだけなら、
生殖向きの性別の文化に、こだわる必要はありません。
正しい生殖のための男女の文化は、
顕微鏡の下で、精子と卵(らん)をくっつけるような、
奇麗な文化になります。
 
現代の原始的な男女の文化は、
LGBTのように、生殖を拒否する人の心に、
風化した遺物のように、伝えられると思います。
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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