クリ 312 同性愛差別

栗(くり)の葉ですけれど、櫟(くぬぎ)でありません。
 
 
治癒した人は、病気のGID(性同一性障害)の人と、
つきあえないそうです。
性転換していることをバラされる、と言うの。
病気中のGIDの人にとっては、
性転換しているってことが、勲章のように誇りです。
とても進歩的なことをしている積もり。
 
実社会では、心の性別がうんぬん、と言ったり、性転換したりするのは、
頭がおかしくなっている証拠みたい。
キチガイってことです。
すみません。
差別用語ですけれど、
一般の人がGIDの人を見た気持ちは、大部分が、そうなの。
 
もとは、気が違っている、というだけの意味でしょうから、
心が、普通とはちがう、いつもと違う、みんなと違う、というほどの、
穏当な意味と思います。
心が変ってことね。
でも、長く使われていると、差別感情がこめられて来るみたい。
 
心の性別うんぬんと言っても、
それだけでは、精神の病気でありませんけれど、
異性装でお葬式に参列したり、異性の水着でプールに入ったり、
性器の外科手術を望んだりして、
心の性別が、体の性別と違うから、心の性別が優越する、
などと言い出すと、精神の病気の嫌疑がかかります。
 
だって、体の性別にかかわらず、性格がどうであろうと、
人それぞれですから、現代日本では、差別されません。
でも、服装や言葉遣いや行動などのうちで、
自由に変更できるものは、文化的に、あるいは法的に、
特定のものでなければいけないと、規定されていることがあります。
自由に変えられるから、みんなの意志によって、
社会的に、みんながこうしなさいと、決められています。
 
法律では、建前(たてまえ)として、社会の合意によって、
特定の具体的なものでなければいけないと、指定されています。
 
法律以外の文化は、それに比べて曖昧(あいまい)ですけれど、
いちおう、流行のように、無責任なものでも、
多数の人の合意するほうへ、流れて行く傾向があります。
大多数の人の嫌っているものが、文化の具体的な内容になることは、
あまり多くないようです。
 
自由に具体的な内容を変えられるものは、法的に、あるいは文化的に、
特定の具体的なものを、指定されます。
具体的でない一般的な、抽象的な中身なんて、ありませんから、
何か、具体的な形を、とらざるを得ません。
みんな一緒のことをするように、要求されます。
 
個人って、行動を中身を、ある程度、自由に変える能力があるから、
みんな一緒に、特定の具体的な形をとるように、社会的に指定されます。
けっして、自由に変更する能力のないものを、指定されたりはしません。
 
個人に、行動や言葉を変更する能力があるって、
フランス革命によって、広く一般に、法的に、あるいは政治的にも、
認められるようになりました。
それまでは、神様の思(おぼ)し召(め)しの通りにしか、
人には、行動したり発言したりする能力がないとされていたの。
 
法律って、みんなで一緒のことをする具体的な中身が、
指定されています。
人には、行動や発言の中身を決めて、変更する能力があるから、
自由に、行動の中身を、規定することができます。
みんなで一緒のことをするように、
みんなで、人の行動の中身を決めています。
個人には自由があるからです。
具体的な行動や言葉や服装などを、みんなで指定して、
みんなで一緒のことをしなくても良いのなら、
法律なんか、必要ありません。
 
みんなで一緒のことをする必要って、法律の必要性と同じです。
法律以外の文化は、法律よりも曖昧ですけれど、
やっぱり、文化の必要性も、同じです。
 
人それぞれの趣味だけでは、言葉も通じません。
言葉って、文化の中身の一つでしょう?
みんなで一緒の言葉を使わなければ、役に立ちません。
自分だけにしか通じない言葉なんか、意味がないでしょう?
 
法律や文化によって、みんなを一つのものに規制する理由って、
簡単ですから、言うと怒られますけれど…
70億人の人が、食べて行くためです。
みんなが勝手なことをしていたのでは、食べて行けません。
殺し合いになってしまいます。
 
みんなが自由に変更できることだから、
みんなで、これこれをすべきだと、法律や文化は規定しています。
けっして、自由に変えられないことを、
これこれにしなさいと、人に強要したりはしません。
自由だからこそ、これこれでなければいけないと、
みんなと一緒のことをするように、規制しています。
 
性別の具体的な行動や言葉や服装なども、その一つです。
でも、性格は、ほとんど規制されていません。
性格って、生まれつきの変更不能な要素や、
幼児期に形成されて、以後は変更不能になっている要素が大きいので、
男だから、これこれの性格や、女だから、これこれっていうふうには、
決められていません。
人それぞれに任せられています。
 
性格はどうあれ、行動や言葉や服装などは、
健常であれば、自由に変更できるとされています。
だからこそ、これこれと、強要されます。
お葬式に、男が留め袖で参列したり、
夏の自治体経営のプールで、女が、男の水着で泳いだりすると、
たぶん、精神の病気とされます。
 
GIDは、精神の病気の人として、
みんなから、大切にされなければいけません。
知的障害者や、痴呆老人や、統合失調症の人が、そうであるように、
精神の病気として、保護されています。
保護や治療の内容が、性転換と言われるものです。
 
御本人の希望を、最大限に、社会が許容してあげています。
死ぬしかない末期癌の患者さんに、
麻薬を打って、気持ちよくなってもらうようなものです。
QOL(生活の質)を大切にする新しい医療の考え方の一つなの。
 
でも、将来が長いので、
性転換をしてしまうと、かえって先々に、
精神的に苦しくなるのでないかと、懸念されています。
また、約半数のGIDの患者さんが、自然に治癒する実態がありますので、
QOLに偏(かたよ)った性転換医療は、間違っているのでないかとも、
疑われています。
 
GIDの患者さんは、今を持ちこたえるのが、瀬戸際の人ばかりですので、
今さえ凌(しの)げば、自然治癒に持ち込める可能性があります。
性転換をしないで、GIDの治る人の例を、
性転換をする人に適用できれば、しめたものかも知れません。
 
実際には、MtF(male to female 男から女へ)でも、FtMでも、
GID(性同一性障害)の仲間内社会の中で、
他の人よりも、異性に似た顔や体の人や、
思春期よりも前の、一般的な広汎性発達障害の症状の重い人や、
思春期以後の、一般的な他の精神障害の症状の軽い人が、
実際にSRS(性転換手術)を受ける傾向があります。
 
GIDの広汎性発達障害は、知能や学力に遜色がなく、
学校教育に特別の配慮を必要としない軽症の人が、ほとんどです。
一流大学の医学部に合格して、医師になる人も少なくありませんが、
自閉と見せびらかしの気持ちが強く、
自閉とカミングアウトの中間を、制御できません。
自我機能の弱い人です。
 
新聞やテレビなどの、マスコミでは、
昔のお祭りの日の、見世物小屋の出し物のように、
変なのばかりを、取扱って、商(あきな)いしていますから、
GIDのような、心の性別や性転換などは、
売春宿の娼婦のように、大切な商品です。
 
マスコミって、変人を売る商売ですから、
犯罪人も、立派な商品になります。
うんと、こき下ろして、唾(つば)を吐いてあげて、
犯罪人の名声を高めて、商品価値を高くして、
記事や番組として、大衆に売りつけます。
 
あっさりと死刑になったのでは、万事休すですけれど、
裁判が長引くと、裁判という見世物の中身が、
記事になり、商品として、売り物になります。
犯罪中に、あっさりと犯人に死なれてしまうと、
それこそ、万事休すです。
 
死人に唾(つば)を吐くわけには行きませんから、
ロス疑惑事件の三浦って人も、
牢屋で自殺すると、商品価値がなくなりました。
弁護士は、死人に唾(つば)をする、と言って、
マスコミや警察を、非難しましたが、その通りになりました。
 
昔のお祭りの見世物って、映画の『エレファントマン』みたいなものね。
わたしは、狼女(おおかみおんな)や、蛇女(へびおんな)を、
見たことがあります。
GIDは本物なのに、見世物の一種です。
19世紀のロンドンのエレファントマンも、本物でした。
 
     GID(性同一性障害)が、なぜ、精神の病気なのか、
     GIDの人の中には、
     性ホルモン剤や外科手術を必要とするので、
     便宜的に、病気とせざるを得ないだけ、と言う人が、
     少なくありません。
   
     じつは、御自身がGIDというお医者さんの中には、
     そう仰有る人が、あまり居ません。
     それよりも、性転換医療を実施しているお医者さんの中に、
     そう思っている人が、たくさんいます。
    
     治癒した元GIDの人の言うには、
     GIDを見て、精神の病気でないと思う人には、
     精神の病気の嫌疑が掛かるそうです。
     
     自衛隊のバルコニーで演説して、
     首を切り取ってもらった三島由紀夫って人や、
     ゲゲゲの鬼太郎の作者や、
     オウムの麻原って人などの、
     責任能力は完全である、とするのが、裁判の相場です。
 
     御本人が苦しいと自覚して、
     病院を受診して、治して欲しいと、医師に依頼しなければ、
     何の診断名も、付与されないってことも、当たり前です。
 
     この状態で、精神の病気と鑑定できるかって、難問です。
     実際に、悪いことをして、死刑になりそうでも、
     医師によって、精神の病気と鑑定する人もいれば、
     健常と鑑定する人もいます。
     御本人が苦しいって、言ってないもんね。
     自覚していません。
 
     三島さんや麻原さんが、人を苦しめたことは、
     間違いありません。
     ゲゲゲの人も、たぶん苦しめていると思います。
     人を苦しめない人って、いないもの。
 
     精神の病気って、御本人が苦しんでいる場合だけでなく、
     御本人は大喜びなのに、人を苦しめている場合にも、
     適用されるんです。
 
     三島さんや、ゲゲゲさんや、麻原さんだけでなく、
     GIDって全員、それに当たるって、言うんです。
     治癒した元GIDの人が、言っています。
     
     人を苦しめない人なんていないのに…
     いくら医学が発達しても、
     治る可能性のない病気も、病気なのかしら。
     発達障害みたいに。
     軽症でしたら、うまく行くと治りますから、
     それを発達障害と言うのは変、という人もいます。
 
     死刑の基準の一つに、
     治療法がなく、更正の余地がないってのもあります。
     人格障害と鑑定されていても、立派に死刑になります。
     人格障害って、精神の病気の中に、ちゃんと入っています。
     病気のせいで、人を殺しても、死刑って、
     むかしの欧米で、同性愛を病気としたのに、
     同性愛を犯罪として処罰したのと同じくらいに、
     矛盾しています。
 
     でも、現在の日本でも、
     人格障害の人が、ちゃんと死刑になっています。
     病気を処罰するって、いまでも普通なの。
 
     昔は、結核や癩病(らいびょう・ハンセン病)に、
     そのイメージがあり、
     本人に責任がないのに、
     犯罪人を処罰するように、隔離しました。
     隔離されて、療養所の中で、村を作り、
     被差別部落のように、差別された生活を営みました。
 
     もっと新しくは、癌(がん)に、そのイメージがあり、
     医師は、患者さんに、
     癌であることを、告知しませんでした。
     患者さんは、胃潰瘍だと思って、死んで行きました。
     癌でないからと思い、入院せずに死んだ人も、無数です。
     御家族が、必死に談判しても、
     癌であることを、家族にさえ、教えない医師が、
     たくさんいました。
 
     日本では、高度経済成長期に、
     だんだんと、癌を告知するようになりました。
     死なずに、治るようになったからなの。
 
     でも、1972年の、日中国交回復後でも、
     中国では、まだ患者さんに、癌を告知しませんでした。
     一般の中国人も、
     癌の告知は、死刑の宣告と同じなので、
     告知するのは残酷であると、考えていました。
 
     日本とは、大違いでしたけれど、
     日本も、高度経済成長よりも前には、
     癌を告知されると、患者さんは食べなくなり、
     元気がなくなり、事実上の自殺のように死んでしまいました。
     治るという希望がなければ、精神障害になってしまうの。
 
     事実上自殺のように死んでしまうのと、
     美容手術に凝ったり、
     変なことを見せびらかさずには居られなかったりって、
     マイケル・ジャクソンって人を見ればわかるように、
     同じ精神の病気の症状なんです。
 
     子供の時から、ずーっとお金持ちの人って、
     精神の病気になりやすいのかしら。
     GID(性同一性障害)にも、
     働かずに食べて行けるって、算段したような人が、
     少なくありません。
 
     高度経済成長して、癌が治るようになると、
     自分から、わざわざ性分化疾患の半陰陽のように、
     性器を変形したくなります。
     わざわざ病気になるの。
     精神医学では、ヒステリーって言います。
 
日本では、歴史上、文化的な同性愛差別は、ありませんでしたが、
欧米では、同性愛を目印にして、
生殖を拒否する精神障害者を、差別しました。
 
同性愛の趣味のある人でも、精神の健常な人でしたら、
禁止されれば、同性愛をやめることができますし、
内緒で嗜(たしな)んで、おおっぴらに口外しないことも、
簡単に出来ましたけれど、
生殖を拒否する精神障害者は、
同性愛をやめることも、秘密にすることも、できませんでしたので、
同性愛を目印にして間引けば、
生殖を拒否する精神障害者だけを、間引くことができました。
   
けっして、健常な同性愛者を間引くことにはなりません。
キリスト教でも、日本と同じように、
同性愛が、ごく普通に普及していただけでなく、
修道僧や聖職者は、同性愛を嗜(たしな)むのが、
円満な人格の要件のようなものでしたから、
けっして、キリスト教やイスラム教による同性愛差別は、
健常な精神の同性愛者を差別する意図でなかったことが、
よくわかります。
 
第二次世界大戦後に、進駐軍と接して、
日本人は、はじめて、欧米の文化を、肌に触れて、直接に知りました。
 
日本の精神障害者が、同性愛を差別する欧米の文化を真似(まね)て、
積極的に同性愛差別を吹聴(ふいちょう)したのは、
日本の精神障害者も、同性愛差別の陰に隠れたい、という意味でした。
「同性愛のせいで差別されている」と、
日本の精神障害者も、言いたかったの。
欧米のように、同性愛差別を言い訳(わけ)にできる文化を、
たいへん良いことと思い、同性愛差別を慕いました。
 
精神障害者は、隠れ蓑(みの)が欲しいの。
「同性愛のせいで差別されている」と、
精神の病気でありながら、同性愛の趣味のある人たちが、
日本でも言い触らすようになりました。
病識のない種類の、精神障害に、一般的な精神症状です。
カミングアウトと言います。
 
精神疾患の分類名で言いますと、
統合失調症やGIDは、病識のない代表的な精神疾患です。
解離性障害も、かなりの人に、病識がありません。
 
ヒッチコックの映画で言うと、
『サイコ』は統合失調症ですけれど、
『めまい』は解離性障害です。
めまいの最後に、修道院の塔から落ちた女性に、
病識があるのか、ないのか、難しいかもしれません。
 
日本では、歴史的に同性愛を差別しませんでしたけれど、
戦場で殺し合う武士の社会では、
お能が、男だけで演じられるように、
同性愛は奥深い人格を表す格調の高い素養でした。
 
戦争がなくなり、平和な世の中になると、
武士や戦争を茶化すような、下品な芸能が流行しました。
出雲阿国(いずものおぐに)や
河原者(かわらもの)の演じる歌舞伎のようなものです。
川端康成の『伊豆の踊り子』の一家のように、
乞食と紙一重の、おもに旅回りの芸能人を、河原者と言います。
河原で野宿するからね。
 
彼らの演じる武家や戦場の、心や行動には、
お能の幽玄や、妖艶な夢や幻などが、ひとかけらもありません。
下世話な人情が主題です。
せめて、琵琶法師の出し物のようでしたら、味わいも深かったかも。
 
仕方ないから、女は踊るな、演ずるな、ということになり、
男だけの、お能の高貴さを、鑑(かがみ)にしなさいと、
幕府が指導したみたい。
でも、歌舞伎って、御存知の通りの、海老フライのようなものです。
女の作ったお弁当のおかずを食べながら、人情を楽しみます。
 
昔、五木ひろしっていう芸能人が、
歌謡ショーの舞台から、お弁当を食べているお客さんに向かって、
失礼でありませんかと、文句をつけたことがあります。
歌舞伎は、お弁当を食べながら見るものです。
お能も、昔はそうでしたけれど、だんだんと食べなくなりました。
偉くなると、食べなくなって、インドのヨガの行者みたいになります。
GIDにも、GIDを発症してから、お医者さんになる人もいます。
 
武士の嗜(たし)んだ同性愛って、
お能の雰囲気に、よく現れています。
朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも、
普通の青年が、戦場に引っ張られましたので、
戦争になりそうな雲行きになると、
青年は死ぬかも知れない、一生、身体障害者になるかも知れないと、
不安になりました。
 
昔は、体を鍛えて、あほになることで、
不安を払拭(ふっしょく)しようとしたの。
筋肉に力が漲(みなぎ)る感じって、それです。
学校の軍事教練で、男の子たちに教えました。 
 
でも、刀狩りや検地の時代の、戦国の武士って、
まだ、お百姓の、たんなる職業なのよね。
田畑を主人に差し出すことと引き代えに、
世襲の職責や地位を、信用取引で保証されたような武士の身分は、
まだ、できたての、ほやほやでした。
 
子供の頃からの、軍事教練を、受けていません。
だから、同性愛なのよ、武家の男の子って。
戦場で、首の飛ぶのを見ると、
お百姓って、みんな散り散りに、逃げてしまいました。
専門職の武士は、逃げるわけに、行かないでしょう?
 
お母さんのオッパイに、顔を埋める赤ちゃんみたいに、
信頼できる男の筋肉や、勃起したペニスに、勇気を得たの。
置いてけぼりにされて、見捨てられる不安を、癒やしてくれたの。
この気持ちって、女にはわかりにくいけれど、
お能に、よく現れていると思います。
 
出雲阿国の歌舞伎になると、武士の尊厳も、ぶちこわし。
元禄時代には、女を閉め出して、
武士の砦(とりで)を守ろうとしましたが、
どうせ、歌舞伎って、お母さんの作ったお弁当です、海老フライです。
お母さんがいないと、泣き出す赤ちゃんの気持ちが、
武士の同性愛に見えているような…
 
同性愛差別って、キリスト教やイスラム教や、
アフリカの民俗宗教のように、
変な教義の無い日本に、あったとは思えませんけれど、
欧米のキリスト教の同性愛差別も、
標的は生殖拒否の精神障害でした。
 
それを知らない人が、歌舞伎やゲイパレードや、
GIDになったりするのかも知れません。
男ばかりの歌舞伎にしてしまったのは、幕府のようなものですけれど、
歌舞伎だから同性愛ってことにしたのは、
三島由紀夫って人みたいに、精神の病気の人だったような…
 
ヒステリーって言うの。
隠れるものが欲しくて、同性愛差別のせいにしたの。
ダミーになるものが欲しくて、性別の心にしがみついたの。
 
     「それが見える」と、治癒した元GIDの人が言います。
     病気の真っ盛りのGIDの人の、あさってになっている心に。
     一般の人は、GIDをみれば、
     あさってになっているって、すぐにわかりますけれど、
     御本人には、わかりません。
     現実から逃げている人は、
     藁(わら)をも掴(つか)む思いかも。
 
     旅芸人の河原者の『伊豆の踊り子』や、
     出雲阿国(いずものおぐに)も、そうでしょう?
     暮らしの場所がなく、見世物になっています。
     インドのヒジュラも、そう。
     三島さんや麻原さんもね。
     ゲゲゲの人は、治っているみたいな気がしますけれど、
     面識がないので、知りません。
     
     健常な人は、伊豆の踊り子に、ついて行けません。
     川端康成って人は、ついて行って、小説にしましたけれど、
     最後は、ガス管をくわえて、自殺しました。
     ロス疑惑の三浦って人も、最後は牢屋で自殺しましたけれど、
     あの人は、少年の頃から、
     人生の1/3ぐらいを、少年院や牢屋で過ごしています。
 
     そういう人たちに、ついて行けないように、
     治癒した元GIDの人には、一般社会の暮らしがありますので、
     病気の真っ只中のGIDの人とは、つき合えないそうです。
     つき合ってしまうと、性転換していることを、
     たれ込まれたりしますけれど、
     病気のGIDの人って、それを良いことと思っていますので、
     責めるわけには行きません。
     性転換を良いこととする医師や弁護士や学者やマスコミが、
     責任をとるべきかも知れません。
    
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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