津野山神楽 147 船と龍馬の話の続き

津野山神楽です。
国の重要無形民俗文化財に指定されています。
韓国のプンムルや、インドネシアのガムランに似ていると思います。
わたしは、ロシアのクラシックバレエとか、
アメリカのミュージカルダンスとか、こういうのが好きです。
 
年寄りのGID(性同一性障害)と自称している人たちに、
高知県の檮原(ゆすはら)出身の人がいて、
みんなで、見に行ったことがあります。
1970年前後に、エストニアでSRS(性転換手術)を受けた人には、
ロシア国籍になっている人も多いの。
バレエの好きな人も、少なくありませんけれど、
MtFのGIDの人って、歌や踊りが好きです。
 
     手漕ぎの船は、小回りが効きますけれど、
     岸から離れられません。
     大昔の、帆かけ船は、追い風を利用するだけでしたから、
     手漕ぎの船の労力を、風を使って節約する程度でした。
 
     風に対して、帆の角度を変えると、船の進行方向が変わります。
     帆や帆柱の位置を変えると、
     帆の角度は同じでも、船の進行方向が変わります。
     舵の角度を変えると、船の進行方向が変わります。
     潮や風の流れに対する舵や帆の角度を調節すると、
     船は風上の向かって、ジグザグに進むことができます。
 
     これぐらいは、図面に書かなくても、
     船乗りの人は、経験的に判断できます。
     日本の船は、竜骨や帆柱が弱く、
     風や潮に抵抗して、船の進行方向を変えようとすると、
     船体や帆柱が、ポキッと折れてしまいました。
     日本の船は、底が浅く、
     大きな波を受けると、転覆しました。
 
     岸から遠く離れ、陸地の見えない外洋を進むには、
     方位や方角を知るために、
     天体を精密に観測する器具が必要でした。
     陸地の形や、潮流の速さや方向や、浅瀬の位置を、
     経験的に、たくさん知っている必要があり、
     それらを海図に記して、多くの人が知識を付け加えて、
     みんなが知識を共有できるような、
     開かれた技術と、社会のシステムが必要でした。
 
     これを邪魔して、日本の船を幼稚にしたのは、江戸幕府かも。
     戦国時代に、地球は丸いって、すでに知っていたのに。
 
日本は海に囲まれた島国で、遣隋使や遣唐使のように、
古くから、外洋に出て行く船と、航路と航海技術を持っていました。
遣唐使船は、その終わり頃の時代に、150t積みで、全長30m、
喫水から船底までの深さが、3mぐらいと言われています。
 
室町時代に、廻船形式の内海航路が現れました。
運賃と引き替えに、荷物を目的地に運ぶ貨物船ですけれど、
貸し切りでなく、たくさんのお客さんの荷物を運びます。
 
お客さんが、運賃と荷物を渡せば、
廻船業者は、目的地の港に、荷物を運んで、
向こうの倉庫に、保管してくれるはずです。
荷主は、廻船業者にとって、お客さんです。
 
送り先の人に、荷主が飛脚を使い、荷受けの書類を届ければ、
送り先の人が、向こうの港の倉庫に、荷物を受け取りに行きます。
お客さんの荷主も、たいていは運送業者ですから、
向こうの港に、自前の蔵を持っているかも知れません。
 
江戸と大阪の間の、菱垣廻船や樽廻船は、この感じでした。
菱垣廻船は、何でも来いの荷物を運びましたけれど、
樽廻船は、鮮度が大切なお酒を、主に取り扱う規定でしたので、
港での荷役が速く、高速です。
 
菱垣廻船と樽廻船は、廻船業者の株仲間が違っていましたが、
天保の改革によって、株仲間が解散になりましたので、
高速の樽廻船が、すべての荷物を扱うようになり、
以後の幕末は、一括して菱垣廻船と言われるようになりました。
 
かつて、日本海側の物資は、
若狭から琵琶湖を経て、京都や大阪に運ばれましたが、
江戸時代になると、
それに変わるルートとして、西廻り航路が発達しました。
大阪と、瀬戸内海を経て、日本海沿岸を結びましたが、
行商をしながら、港を回りますので、
1年に1往復して、大阪に戻って来ました。
後に、北海道まで、航路を延長しましたので、北前船と呼ばれています。
 
東廻り航路は、江戸と、東北地方の太平洋側を結ぶ航路で、
おもに、東北各藩が、お米を出荷するために、
江戸時代に開拓したルートを、幕府が規格したものです。
 
江戸幕府は、藩を越えた人や商品の、自由な往来や取引が、
幕府のあずかり知らぬところで行なわれるのを、たいへん嫌いました。
河村瑞賢に命じて、廻船や港や航路の運営を、
街道や宿場や関所のように、規制しました。
  
鎌倉時代の遣明船は、1500石、225tぐらいで、
戦国時代から安土桃山時代に、東南アジアに出掛けた朱印船は、
4000~5000石、600~700tだったそうです。
 
江戸時代初期は、幕府が密貿易を禁止するために、
500石までの船しか、許可されませんでしたけれど、
18世紀から、規制が緩和されて、
幕末の弁財船と言われた菱垣廻船には、
2000石くらいの、大きな船もあったそうです。
40mぐらいかしら。
 
韓国の百済の、栄山江という川の流域に、
5~6世紀の前方後円墳が、20基ぐらい、発見されています。
海岸に木浦という町、中流に光州という町がありますけれど、
このあたりの前方後円墳の長さが、だいたい30~70mです。
 
明治維新以前の、和船の最大のものと、ほぼ同じ長さですけれど、
遣唐使や遣明使の乗った日本の外洋船も、
中国へ行くには、韓国の沿岸から、中国の山東半島へ、
海岸伝いに渡るのが、最も安全でした。
このルートは、壱岐、対馬、韓半島と、
目で陸地の見える範囲を航行しますので、安心です。
 
百済や任那に、日本人が拠点を設けたのは、
中国航路と、鉄の産地を確保するためでした。
6世紀の日本は、まだ、金属の精錬ができませんのでしたので、
鉄の地金を、百済から輸入していました。
わたしの家系って、昔から金属の精錬が家業なの。
 
ペリーが来てから、船の大きさの制限が撤廃されましたので、
各藩は、こぞって西洋の中古船を買いました。
十数年後には、長崎や横須賀に、最初の造船所が作られました。
それでも、まだ幕末です。
岩崎弥太郎って、三菱の日本郵船を作った高知の人ですけれど、
幕末の高知は、西廻り航路から、はずれていましたので、
四国の太平洋側を、船で航行する技術は、あまり発達しませんでした。
 
大坂と江戸の間には、主要な廻船航路が開かれていましたが、
人は、船を使わずに、陸地の街道を歩きました。
外洋を航行する客船航路は、幕府から許可されませんでした。
高知の人は、愛媛県との県境の、笹ヶ峰を越えて、川之江市に出ました。
北街道とか、北山道とか、土佐北街道とかと、言われています。
そこから、参勤交代の大名も、瀬戸内海を、船で渡りました。
 
     漁師だけが、陸地が見えなくなるほど、
     太平洋の沖まで出ていきました。
     ジョン万次郎は、足摺岬の根元の、
     西側の海岸の、土佐清水市の生まれですけれど、
     横須賀の浦賀港に、たいへんよく似た地形です。
 
     造船の浦賀と違い、土佐清水は漁港でした。
     ジョン万次郎は、ここから14才の時に、
     初めて鯖(サバ)漁に出て、そのまま遭難して、
     無人島の鳥島に漂着しました。
 
     5ヶ月後に、アメリカの捕鯨船に助けられ、
     マサチューセッツの、ニューベットフォードという町で、
     教育を受けました。
     24才の時に、上海行きの貨客船に乗り、
     琉球の沖合を通る時に、
     手漕ぎのボートと一緒に下ろしてもらい、帰国しました。
 
     坂本龍馬も、ジョン万次郎から、
     アメリカの事情を聞いたと、言われています。
     ジョンは、琉球と薩摩と長崎で、1年半ほど、
     取り調べを受けた後、
     土佐に帰されて、さらに2ヶ月間ほど、
     取り調べを受けましたが、
     日本語を忘れていたそうです。
     
     母と再会した後も、蘭学に造詣のある絵師と、
     一緒に暮らしています。
     日本語をトレーニングしなければ、
     英語が役に立たなかったかも知れません。
     彼は、日本に開国させることが、夢でした。
 
     14才で、漁師になっていますから、
     もしかしたら、最初から、日本語の読み書きが、
     出来なかったかも。
 
     でも、Waterわら、Sundayさんれぃ、summerしゃま、
     New Yorkにゅうよぅ、って、使える発音です。 
 
     母親と再会して、わずか半年で、
     ジョンは、幕府から、江戸に呼び出されています。
     ペリーが来航しました。
     龍馬は、ペリーの1度目の来航の、2ヶ月ほど前に、
     遊学のために、江戸に着いていました。
     二度目の来航の3ヶ月後に、土佐に帰りました。
 
龍馬の脱藩は、1862年で、土佐を出たのは、5回目ぐらいかしら。
脱藩すると、建前としては、家族や友人が連座しますけれど、
幕末になると、処罰される例は、ほとんどありませんでした。
一方的に主従の関係を断ち、出奔することですけれど、
財政難の幕末には、お仕事のない武士が、たくさんいましたので、
脱藩してくれれば、藩のほうとしては、有り難かったかも。
坂本さんは、2年ぐらい後に、赦免されています。
 
脱藩の時に、高知県西部の、檮原(ゆすはら)街道を通って、
下関に向かいました。
檮原から、さらに、韮ヶ峠の山道を越えて、愛媛県の大洲に抜けました。
大洲って、昨日のブログの記事の、いろは丸の船籍のあった藩です。
彼が暗殺された後、海援隊の人は、
いろは丸の問題と直感して、紀州藩に報復しています。
 
でも、歴史学者の圧倒的多数意見は、京都見廻組の犯行としています。
ほとんど異論はありません。
函館戦争で降伏した捕虜の一人が、犯行の一部始終を自供しています。
戊辰戦争の時の、五稜郭の戦いね。
わたしは、函館の生まれなの。
 
その人の自供が、犯人しか知り得ない情報を、たくさん含んでいました。
当時は、今みたいに、歴史学者の人が、
色々な資料を、引っ張り出して来るなんて、ありませんでしたから、
見廻組や、新撰組や、紀州藩の人が、
事件について、知っている噂なんて、知れています。
 
それなのに、自供した人は、すごく詳しく知っていて、
現場の状況や、犯行の様子が、
事件を検分して報告した公文書の記載と、矛盾しません。
捜査当局でなければ、犯人しか知り得ない情報を、知っているので、
犯人に間違いないってことらしいの。
 
見廻組って、新撰組みたいに、
京都の治安維持のための、京都守護職配下の軍事組織ですけれど、
新撰組は、60名ほどの、浪人を雇い入れて作った傭兵組織で、
見廻組は、200人ほどの、旗本御家人の子弟で作った正規軍ね。
 
海援隊は、紀州藩に報復しましたけれど、
罪を着せられて殺された人は、浮かばれません。
 
司馬遼太郎っていう人の、歴史小説のせいで、
今は、坂本龍馬って人が、有名ですけれど、
当時は、名もない一兵卒でした。
武市半平太や、中岡慎太郎って人が、
土佐藩の、革新派の若い人を、取りまとめていました。
 
武市さんは、1864年に逮捕されて、翌年に切腹させられていますから、
中岡慎太郎さんが、若い志士のリーダーね。
いろは丸の衝突事故や賠償交渉に、
中岡さんは、関与していなかったでしょう?
 
犯人は、リーダーの中岡さんを狙っていましたから、
坂本さんは、眼中になかったかも。
龍馬って人は、資金や武器を調達して、兵站を受け持つ役柄でした。
そういう性格に見えますよね、写真の顔と言い、発言の内容と言い。
ふわふわっとして、エエカッコをしたがる流行の若い男の子ですよ。
 
     檮原(ゆすはら)って、津野山地方の中心地の一つです。
     彼は、ここを通って、脱藩したことになっています。
     龍馬を記念して、観光目当てのイベントが、結構あります。
     下関へ行くことになっていましたので、
     檮原街道を通るのが、一番近いのかも。
 
     天誅組の吉村虎太郎も、津野町の出身ですけれど、
     四万十川の上流の、檮原川流域の檮原町と、
     新庄川流域の津野町とを合わせて、津野山郷と言います。
     東西に細長い土地を結ぶ道があり、
     檮原街道と名付けられています。
     新庄川って、須崎湾に流れ込みますので、
     港町の須崎市には、津野氏に臣従する人の、
     武家屋敷が、たくさんありました。
     
     10世紀の初めに、藤原経高という人が土着して、
     津野氏を名乗り、開発領主になりました。
     土佐の国って、だいたい、
     中央の人が左遷されて、追放される所でした。
     土佐の西部の津野山郷は、戦国時代まで、
     津野氏が長期間、一円支配していましたので、
     中世の古い文化が、よく残っています。
     津野山文化と言います。
 
     平安時代の末に、土佐の東部に住み着いた長宗我部氏も、
     津野氏とよく似た立場だったかも知れません。
     蘇我氏の部曲(かきべ)だから、宗我部です。
     部曲って、大昔の豪族に服従していた人たちで、
     律令時代になると、建前は公地公民になりましたから、
     部民(べみん)というのは、なくなりました。
 
     長宗我部(ちょうそかべ)氏と、
     香宗我部(こうそかべ)氏とは、
     どちらも、土佐七雄と言われる豪族の、宗我部氏なので、
     荘園のある在所の、長岡と香美を区別して、
     長宗我部と香宗我部と、呼び慣わされるようになったそうです。
      
     長宗我部氏は、戦国時代に四国全部を制圧して、
     織田や豊臣の、全国政権と張り合いましたけれど、
     最終的には、豊臣氏に臣従しました。
     津野氏の養子として、
     長宗我部元親の三男の、親忠が送り込まれ、
     津野親忠として、津野氏を継いでいましたが、
     人質として、豊臣秀吉に差し出されました。
     
     津野親忠は、秀吉臣下の、藤堂高虎と親しくしていましたが、
     高虎は、秀吉の晩年に、徳川に寝返り、
     家康の重臣になりました。
     そのことから、1598年の秀吉の死後、
     津野親忠は、父の長宗我部元親に嫌われて、幽閉されました。
 
     1599年に、父の長宗我部元親が亡くなり、
     四男の長宗我部盛親が、跡を継ぎましたけれど、
     1600年の関ヶ原の戦いに、盛親は西軍に加わり、負けました。
     もしかしたら、家康によって、盛親が責められ、
     津野親忠が、長宗我部氏の跡取りになるかも知れません。
 
     長宗我部盛親は、幽閉していた兄の津野親忠を殺しました。
     そして、西軍に加わったことを、徳川家康に謝罪しました。
     家康は、納得しませんでした。
     どうして、お兄さんを殺したのかと。
     
     1615年に、長宗我部氏は、大坂の陣に負けて、
     一族郎党、徳川家康に斬首されて、絶えました。
     
     土佐は、掛川の山内氏が統治することになり、
     明治維新まで続きましたので、
     津野山郷は、異文化や流行文化との、交流や軋轢が少なく、
     昔の趣きが、よく残っていると、言われています。
     津野氏は、新庄川中流の、津野町の葉山という所に、
     半山姫野々城というお城を構えていました。
     現在は、遺跡が発掘されて、遊歩道が出来ているそうです。
 
天誅組って、吉村虎太郎が総裁をやっていた武装組織で、
1863年に、奈良県の五条の代官所を襲撃して、蜂起しました。
1ヶ月で、負けましたけれど、
尊皇攘夷派が、初めて幕府と、武力行使に至った事件です。
吉村虎太郎は、逃走中に発見されて、射殺されました。
 
1862年に、攘夷の勅書が出たので、
1863年5月10日に、幕府は、攘夷を実行すると答えました。
侍従の、18才の中山忠光っていうお公家さんが、長州に行き、
長州藩は、その日に、下関海峡の、アメリカの船を砲撃しました。
下関戦争ってやつです。
この時に、26才の吉村虎太郎っていう、土佐藩を脱藩した人が、
中山忠光と一緒でした。
 
でも、長州藩は、欧米列強に報復されて、
こてんぱんに、やっつけられましたから、
中山さんは、侍従職を解任されました。
 
8月13日になって、
孝明天皇が攘夷のために行幸する、っていう詔勅が出されました。
長州藩や三条実美の、しわざです。
 
それで、天皇の攘夷親征の、先兵を勤める名目で、
中山忠光が主将、吉村虎太郎が総裁の、
天誅組っていう武装組織を作りました。
京都から船に乗り、大阪の堺市に上陸して、
各地の城を訪ね、兵と武器とお金を徴発しながら、
味方を増やして、敵の幕府勢力をやっつけよう、という魂胆です。
自分達のことを、御政府と自称して、菊の紋章の入った旗を掲げました。
わずか38人の、浪士たちでした。
 
五条の代官所を襲撃して、代官の首を切り取ったまでは、順調でした。
でも、少数なのに過激でしたので、
攘夷を名目にした倒幕運動と言うよりは、テロリストの集団に見えました。
8月18日に、京都では、
公武合体派の、薩摩藩や会津藩などが、
尊王攘夷派の、長州藩や三条実美なんかを、
京都から追放して、孝明天皇の行幸は中止になりました。
 
当時は、まだ、長州藩と薩摩藩は、敵対して、殺し合いをしていました。
後に、坂本龍馬が、両者を取り持ち、和解させたことになっています。
ようするに、薩摩藩の気が変わりましたけれど、
倒幕でもなく、佐幕でもなく、中間ぐらいが、土佐藩の多数派でした。
1863年の薩摩藩は、まだ、幕府最右翼の会津藩と組んで、
最左翼の長州藩を、京都から追い払っていました。
 
行幸中止になったことから、
長州藩と組んでいた天誅組は、大義名分を失い、
奈良県の山の中を根城にして、1000人もの十津川郷士を集めました。
でも、幕府は、京都在住の十津川郷士の、前田雅楽に、
天誅組を逆賊とする天皇の令旨を持たせて、説得に当たらせましたので、
天誅組では、脱走者が続出しました。
やがて、大量動員された幕府軍に掃討されて、
みんな散り散りに逃げ惑い、吉村虎太郎も、撃ち殺されました。
 
十津川って、奈良県の山の中で、昔から、武士の落ちのびる所でした。
坂本龍馬が殺される直前に、十津川郷士を名乗る人が、会いに来ました。
それが刺客だったの。
 
津野山神楽は、17曲全部を踊ると、8時間かかるそうです。
ビデオの「山探し」は、
般若のお面の神様が、失われた宝剣を探し出して、喜んで踊っています。
この神様を使わしたのが、金山彦という神様です。
 
古今東西、この種のお話は、宝剣が、鉱山や精錬業を意味しています。
鉱山を見つけて、お金持ちになったというお話です。
北欧神話を作曲したワグナーの、ニーベルングの指輪の中の、
ラインの黄金や、ジークフリートの持つ剣などと同じで、
鉄を精錬して、冶金して、剣を作り、部族同士が神々のように争い、
栄える部族と、没落する部族が出てきます。
津野山神楽も、それを表現しています。
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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