アーモンドは、満開ですけれども、
カメラを持っていなかったので、
昔の古いカメラで撮った写真で、申しわけありません。
今のお花の様子と同じですけれど、撮影は10年以上前です。
ごめんなさい。
リリアン・ヘルマン原作の、『ジュリア』という映画を見ました。
映画の出来は、悪くなく、
ジュリアを演じたヴァネッサ・レッドグレイヴは、
アカデミー助演女優賞を受賞しています。
リリアン・ヘルマンが難物で、
この原作も、彼女自身の回顧録の中に、親友のジュリアが登場しますが、
精神科医の書いた自伝の中の、精神科医御本人にそっくりで、
その医師は、ヘルマンを知らないと言っています。
ジュリアは、オックスフォード大学の医学部出身の、名士一族の人で、
ウィーンのジークムント・フロイトの元で勤務するはずでしたが、
社会主義に傾倒して、戦時中のナチスに殺されました。
ヘルマンと、その彼氏のダシール・ハメットは、
二人ともアメリカ合衆国共産党員でした。
彼女は、スターリンを支持していましたので、
トロツキーのアメリカ合衆国亡命に反対しました。
トロツキーは結局、メキシコに亡命して、スターリン派に暗殺されました。
1938年(昭和13年)1月3日の吹雪の中を、
岡田嘉子(おかだ・よしこ)という有名な女優が、
杉本良吉という演出家と一緒に、
樺太国境を越えて、ソ連に亡命しました。
当時は、樺太の真ん中に、日本とソ連の国境がありました。
杉本は、ソ連在住の佐野碩(さの・せき)や、
土方与志(ひじかた・よし)を頼るつもりでした。
佐野は、「インターナショナル」や、「ワルシャワ労働歌」の訳詞者で、
土方は、伯爵でしたが、
二人とも、著名な演出家でした。
佐野と土方は、フセヴォロド・メイエルホリドのもとで、
研究員として、ソ連に滞在しているはずでした。
メイエルホリドは、演劇の世界における革命を、
世界的に指導する立場にあったソ連の演出家です。
ところが、スターリンの派閥と対立したメイエルホリドは、
すでに粛正されて獄中にあり、
その研究員を勤めていた佐野と土方も、
1937年に、国外追放になっていました。
国境を越えた杉本と岡田は、
恋の逃避行として、日本で有名になりましたが、
国境を越えるなり、ソ連当局に逮捕されて、
杉本は拷問を受けました。
自分と、佐野や土方やメイエルホリドなどは、
いずれもスパイであると、自白して、
翌年の1939年に、杉本は銃殺されました。
メイエルホリドも、1940年に銃殺されましたが、
杉本の自白が有罪の根拠になったそうです。
国外追放になった佐野は、フランス在住を経て、アメリカに渡り、
アメリカ合衆国共産党員になりました。
さらに1939年に、メキシコに渡り、
演劇指導者として、メイエルホリドの教えを伝えて成功しましたが、
1940年の、トロツキー暗殺に加担したのではないかと、疑われています。
佐野のメキシコ亡命に尽力したのは、画家のシケイロスでした。
シケイロスは、スターリンの、いわゆる社会主義リアリズムを信奉していました。
1940年5月に、トロツキー暗殺未遂事件を起こした後、地下に潜伏しました。
トロツキーは、その年の8月に、
秘書の恋人の、本職のソ連のスパイだった登山家に、
ピッケルで頭を貫かれて亡くなりました。
当時のアメリカ合衆国共産党は、スターリンの支配下にありましたが、
その後のベトナム戦争の時代に、アメリカの反戦運動を推進したのは、
むしろ、トロツキーの世界同時革命を信じる学生たちでした。
この人達が、ベトナム戦争後、自由主義に転向して、
アメリカネオコンと言われるようになり、
政治資金を集めて、ブッシュ政権の政治経済政策を立案しました。
チェイニー副大統領が一派の首領で、
ブッシュ大統領は下っ端だったかも知れません。
経済のグローバル化は、その代表的な政策でした。
1970年前後に、ソ連領エストニアで性転換手術を受けた日本の人達は、
現在、年寄りのGIDと自称しています。
当時のエストニアは、ソ連に占領されていましたが、
デンマークやスウェーデンなどの北欧の医師を招聘して、
国際共産主義運動の名のもとに、無料で性転換手術を実施していました。
シベリアの収容所に、たくさんの政治犯が送り込まれていた時代です。
年寄りのGIDの人達を、医学的、経済的に支援したのは、
日本の伝統的な財閥の一つで、
一族の人たちのための、半陰陽医療の延長のように、
よそ者のGIDに対する性転換医療を行ないました。
この一族の人達が、経済的に当時のソ連陸軍やKGBや、
最近のアメリカネオコンなどと、密接な関係があり、
トロツキーやスターリンなどの、古い歴史を介して、
リリアン・ヘルマンという女性の、作家活動にも、
皮肉な繋がりを持っています。
『ジュリア』という映画には、
そんな歴史の経緯(いきさつ)が、二重に見えていたような気がします。
彼女自身も、レスビアンだったと言われています。
岡田嘉子さんは、その後、10年以上の収容所生活の後、
モスクワ放送の日本語アナウンサーになり、
1972年に帰国しましたが、1986年に再びソ連に帰り、
1992年にモスクワで亡くなったそうです。
アメリカインディアンと年寄りのGIDのことや、
アラブやロシアやアフリカの石油のことなどを、お話する機会があれば、
代理母出産や戦争などが、GID医療に欠かせない視点であることが、
わかるかも知れません。
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