トチノキ 栃の木 0147 言葉の意味

わたしは知りません。
 
宇都宮や日光や足尾などを、
何度か、訪ねていますが、
山や町は、雲のように、
トチノキに被われていません。
 
貧乏人のわたしでも、低額の飛行機でなく、
たまには、高額の新幹線に乗り、
車窓から、栃木の山や、農家の庭を、
眺めます。
 
トチノキなんて、1本もない。
 
イエスキリストの母の名は、マリアでしたが、
ありきたりの女性の名前でした。
 
ヒエロニムスが、
聖書を、ラテン語に翻訳するときに、
マリアの語源から、
海の滴(しずく)としたので、
滴(stilla)が、星(stella)と伝わり、
現在のように、海星と、
呼ばれるようになりました。
 
固有名詞を、語源に即して、
翻訳しなくても良いと、思いますが、
固有名詞なら、語源は無意味とも、
限りません。
 
 
   ***    ***
 
 
   言葉の意味は、たくさんの意味の中の、
   どれが正解と、
   どのようにして、わかりますか。
 
   それが、わからなければ、
   法律の条文は、用を成しませんので、
   判例が、法律の、正解の意味であると、
   言う人もいます。
 
   判例を知らなければ、
   法律は、無意味でしょうか。
 
   実際に、弁護士に頼まずに、
   裁判に勝った人は、めったにいません。
 
   それどころか、言葉の意味は、
   使用されるたびに、異なる、
   と言う人も、少なくありません。
 
   それでは、言葉は通じないと、
   思う人もいれば、
   それだから、言葉は通じると、
   言う人もいます。
 
   どうせ、
   判例は、言葉で書かれていますから、
   その記述に費やされた言葉の意味を、
   また、使用例により、
   規定しなければいけません。
 
   言葉の意味が、固定されない限り、
   言葉を、言葉により規定しても、
   無駄と、言う人もいますが、
   国語辞典は、
   言葉で言葉を、規定しますし、
   金本位制や固定相場制でなくても、
   通貨が混乱することも、ありません。
 
 
言葉と言葉の関係という規則性がなければ、
言葉は通じないと、言う人もいますが、
文法や論理法則などの規則性は、不変でなく、
流行文化であるにもかかわらず、
言葉は通じますから、
言葉がなくても、言葉は通じると、
言う人もいます。
 
わたしたちが、目で見て知る視覚の内容は、
すべて、言葉であると、言われています。
 
わたしたちは、
人間の知覚に拠らない事実や自然を、
知覚しているのでなく、
人間の作った言葉を、知覚していると。
 
実際に、他人の言葉が聞こえるのは、
人間の作った言葉を、知覚しています。
 
同様に、わたしたちが見ているのは、
人間の作った言葉であると。
 
自分の声帯が発した言葉は、
自分の耳に、聞こえますが、
他人の発した言葉も、聞こえます。
 
当たり前ですが、
聴覚の内容は、自分の発した言葉だけでなく、
他人や犬や小鳥の発した言葉も、あります。
 
音楽は、声帯が発した言葉であるだけでなく、
手や足が発した言葉でもあります。
 
ダムが、サイレンを鳴らせば、
放流するので、増水しますと、
河原に書かれています。
サイレンも、言葉です。
 
 
   聴覚の捕捉した音は、すべて、
   言葉であると、確信する人もいます。
 
   犬が鳴いたから、
   あの車は、自分を監視していると。
 
   すると、精神科医は、
   強制的に、統合失調症と診断して、
   その人を、隔離監禁します。
 
   直ちに、抗精神病薬を投与しますので、
   必ず、2週間後に、薬物依存症になり、
   ほんとうに、統合失調症の症状に、
   苦しむようになります。
 
   3ヵ月後には、
   人格が、不可逆的に解体されて、
   廃疾となり、生涯痴呆となりますから、
   事実上の殺人です。
 
   法律のどこにも、
   聞える音は、すべて言葉であると、
   主張してはならないって、
   書かれていません。
 
   言論の自由です。 
   彼は、何の法律にも、
   違反していません。
 
   何を確信しても、人の勝手であると、
   憲法に書かれています。
   思想信条の自由です。
 
 
しかし、精神科医は、
妄想や幻聴であると、言います。
精神病の、典型的な症状であると。
 
わたしは、音だけでなく、
目に見える物事(ものごと)や、
手で触って感じられることも、
すべて、知覚の内容は言葉であるとの、
意見を、大切にします。
 
自分の発した言葉もあれば、
他人や、他の動物の発した言葉も、
あるだけでなく、
間接的な言葉や、自然の言葉も、あります。
 
それどころか、
人間には、目や耳がないと、主張する意見を、
昔からの有力な定説であると、
わたしは耳を傾けます。
 
 
   わたしは、気違いの味方どころか、
   気違いと、されかねません。
   精神科医のほうが、
   本物の気違いであろうと、
   書いていますから。
 
   精神医療は、
   ロマンティックな古臭い権力の、
   治安維持のための、強権発動であると、
   書いています。
 
   ロマン主義は、ナチスの起こした
   戦争やホロコーストが、失敗に終わり、
   ソ連が崩壊したことにより、
   すでに廃れて、間違いであったと、
   確定しています。
 
   ロマン主義を奉じる日本国憲法や、
   ロマン主義の綱領のような精神医学も、
   廃止すべきであると、
   わたしは主張しています。
 
   精神科を解体して、
   精神科医の犯罪を、地の果てまで、
   追及すべきであると。
 
   彼らが、更生しない限り、
   2度と、町を歩かせては、ならない。
 
 
ところが、厄介なことが、1つ、あります。 

世間一般の人や、
被害者の精神病患者自身が、
抗精神病薬を強制投与される以前から、
すでに、精神科医と、同じ考えです。
 
フランス革命や、ナチスや、ソ連共産党も、
世間一般の支持を得ていたように、
精神科医のロマン主義は、
世間一般のそれと、同じです。
 
精神科医と、
世間一般の人や、被害者の患者などは、
共食いをしているだけです。
 
精神科医は、自分の精神を、
精神病と診断するように、
世間一般の人を、捕獲して、
抗精神病薬を強制投与しています。
 
そのことが、
性転換医療に、よく表われています。
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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