ボタン 牡丹 0134 表現としての知覚 目が受信器でないとしたら


 
牡丹(ぼたん)は、棘(とげ)がないので、
薔薇(ばら)よりも優しく、
花期が短いだけ、新鮮かも知れません。
  
バラ園より、牡丹園が、遥かに少ないのは、
四季咲や蔓(つる)性や芳香などが、
無いからでしょうか。
 
バラに負けるのは、何故かと、
バカなことを、考えております。
 
 
   ***    ***
 
 
植物の分類は、わたしのような素人なら、
名前を知るだけですが、
進化系統分類は、
進化の枝分かれを、表示するのが、目的です。
 
突然変異は、減数分裂のような生殖よりも、
おもに体細胞の日常に、起こりますが、
変異や純化と、絶滅や繁殖との、
因果関係がわからなければ、
種(しゅ)の単位の、生殖の系譜から、
進化を知るのは、無理かも知れません。
 
人間の個体は、
他人や、他の生物の種(しゅ)を、
殺したり絶滅させたりも、できますが、
その能力は、ばい菌からの遺伝情報を、
個体が、継承しているだけかも知れません。
 
個体のレベルで、起こることを、
種の単位で、表示するのは、無理のような。
 
生殖でなく、日常的な生活により、
絶滅や繁殖が、決まるだけでなく、
種(しゅ)の単位の、日常よりも、
個体の日常から、
他の個体や種の、繁栄や絶滅が、起こっても、
種の単位の、生殖の系譜を、進化とするのは、
因果関係を、取り違えていないかと、
吟味したくなります。
 
多くの種に共通の遺伝形質が、
特定の個体に遺伝していることから、
他の個体や種の、繁栄や絶滅が起こるなら、
その個体の属する種に特有の遺伝形質が、
その繁栄や絶滅の原因でないことは、
明白です。
 
その反対に、マンモスの絶滅は、
人類特有の知能のせいかも知れませんので、
進化系統分類は、
繁栄や絶滅の経緯を、誤解させるのが、
目的でないかと、疑いたくなります。
 
進化論そのものが、誤解でないかと。
 
 
   生物の分類学は、
   生物の種(しゅ)と、種の概念を、
   識別しません。
 
   進化の系統は、
   南京大虐殺や従軍慰安婦のようであり、
   生物の分類は、名前を知ることと、
   割り切ったほうが、良いかも。
 
   実際の進化が、在るのか無いのかは、
   カトリックの宗教家や学者が、
   無いと、主張するように、
   在ると、仮定したほうが、
   便利であるとしか、証明できません。
 
   進化は、流行文化にすぎないと、
   宗教家は言います。
 
   人間のように、
   目の前で生きている生物や、
   骨仏のように、
   目の前に在る生物の化石は、
   進化の証拠でないのかと、
   疑問になりますが、
   生物や、その化石から、
   生物が進化したと、証明する手順は、
   ありません。
 
   それどころか、目の前の生物や化石が、
   確かに在ると、証明することさえ、
   不可能です。
 
   化石と言うも愚かと、
   カトリックは、言います。
 
   人間は、
   目の前の出来事さえ、証明できません。
 
   因果関係は、もちろんのこと、
   それが、目の前で起こった、
   ということさえ、
   ビデオに映っていても、
   証明できません。
 
   場所や日時が、特定できて、
   そのビデオに、その人が映っていても、
   その人の知覚の中身と、
   同じであると、証明されなければ、
   ビデオの映像は、
   その人だけでなく、だれの知覚とも、
   似ていない可能性が、あります。
 
   だれにも知覚されないことが、
   あったと、
   何を根拠に、証明されるのでしょうか。
 
   留守宅に入った泥棒が、
   ビデオに映っていれば、
   間違いないとして、処罰されるのは、
   何を根拠にしているのでしょうか。
 
   だれにも知覚されていません。
   本人は、入っていないと、言います。
   自分は泥棒でないと。
 
   わたしたちは、ビデオは正しいとして、
   泥棒が嘘をついていると、
   判断しますが、
   その判断の、根拠と手順が、問題です。
 
   だれの知覚にも、依存しない判断を、
   正しいと証明できますか。
 
   その手順を、裁判官は理解できません。
   だれが、どのように証明しますか。
   裁判官は、
   なぜ、自分の理解できない判断を、
   採用したのでしょうか。
 
   ビデオは、嘘をつかないと、
   裁判官は判決します。
   裁判官自身は証明できませんから、
   心証です。
 
   科学技術の信頼性と、
   まったく同じ判断の手順ですから、
   世間一般の人の、盲目の科学主義や、
   日本の科学技術立国の政策などと、
   たぶん同じです。
  
   世間一般の人は、
   知覚に拠らない事実を、
   ビデオが記録したと、確信します。
 
   宗教家は、
   事実は、知覚により作られると、
   言います。
 
   目は、事実を見るのでなく、
   自分が作った事実を確認するための、
   モニター画面であると。
   事実の製作に、間違いがないかを、
   確認します。
 
   多くは、
   目の持ち主が作った事実ですが、
   他人の作った事実と、
   矛盾しないように、
   脳が調節しています。
   その作業のモニター画面が、
   視覚であると。
 
   つまり、
   目は、他人とのコミュニケーションの、
   齟齬を確認するための、表示装置です。
 
   けっして、
   だれの知覚にも依存しない事実を、
   受信するための機械で、ありません。
 
   ビデオの映像が、問題なのでなく、
   裁判官や検察官や傍聴人の目が、
   ビデオの映像を受信したことが、
   問題でもありません。
 
   彼らが、
   互いに齟齬をきたさない事実を作った、
   ということが、問題であり、
   彼らが、
   ビデオと同じ映像を知覚したと、
   だれも証明できません。
 
   ビデオの映像は、
   それを見た人の知覚を、
   他人が検証できなければ、
   個人的にしか、
   見ることが出来ませんので、
   泥棒が映っていたと、
   社会的には特定できません。
 
   わたしたちは、泥棒が映っていた、
   という言葉を、
   他人と共有するだけですので、
   その意味が、同じであると、
   だれも、確認できません。
 
   同音異義語でないことを、
   だれも確認できません。
   
   だれも知覚していない事実は、
   ビデオの映像そのものが、
   同音異義語にすぎないと、
   断定できます。 
 
 
化石であると、証明するには、
地層や石や遺骸などが、形成された年代を、
元素の同位体を使い、測定しますが、
時間や論理法則や空間は、
知覚の中身を分類するための、
3種類の基準にすぎないにもかかわらず、
それぞれの教条が、不明であり、
論理法則は、流行文化でないかと、
疑われています。
 
時間や空間と言われる伝統文化を、
知覚として、表示しているだけかも、
知れません。
 
ここ40億年ほどの、生物の伝統文化ですが、
当の時間が、問題ですから、
40億年と言おうが、0.001秒と言おうが、
差はありません。
 
時間の密度だけでなく、順番の根拠が、
皆無です。
 
取捨選択されて、純化された判断の手順を、
生まれつきのプログラムとして、
継承していますから、
時間や空間と言われる判断の手順は、
遺伝的素質の組合わせであり、
その組合わせの数だけの、人それぞれの
時間や空間の尺度があります。
 
すべての人に共通の時間が、
大昔から、あるにもかかわらず、
だれも、そんな尺度を、
他人と協約していません。
   
社会が、政治的に約束しても、
個体の生理的な仕組みになるわけが、無い。
 
1人の個体の知覚についてさえ、
均一な時間があるとは、思えません。
 
 
   順番に至っては、特定の順番を、
   規定したり指定したりする方法さえ、
   この宇宙の、どこにも、ありません。

   一切の規則性がなく、
   完全に混沌としていますから、
   時間に拠る事実や科学や科学技術を、
   確信する精神が、
   支離滅裂であることは、
   言うまでもありません。
 
   時間の尺度は、その時に応じて、
   恣意的ですから、
   均一で共通の時間があれば、
   便利かも知れないと、憧れることが、
   時間と名付けられた感覚でないかと、
   疑われています。
 
   概念の恣意的で個人的な分類基準は、
   自分中心の秩序や権力への、
   欲望かも知れません。
 
   この感じは、習慣ですが、
   いつも適用していれば、
   自覚しなくなり、
   老化すれば、変更不能になるのは、
   当然です。
 
   わたしは、小学2年生くらいに、
   次第に老化していると、感じましたが、
   40才代前半の老眼の頃まで、
   危機的と感じませんでした。
 
 
殺して、闇から闇に葬り去るように、
嫌(いや)な奴が存在した、という証拠を
隠滅するために、
日本の伝統的な生物の種(しゅ)を
守らなければいけないと、
日本生態学会が、
荒唐無稽なことを、言い出すのは、
時間や空間などの、恣意的なプログラムが、
取捨選択されて純化された経緯と、同じです。
 
彼らは、日本の固有種を守るのでなく、
時間や空間などの、遺伝的プログラムを、
自分の気に入ったように、
取捨選択して純化すると、言うべきでした。
 
ロマンティックです。
 
刑事訴訟や精神医学だけでなく、
戦争や人殺しは、皆、そうですから、
別に、生態学会だけがあほと、言えません。
 
憎しみや喜びや善悪や価値などの、
感情だけでなく、
視覚や聴覚や痛みなどの、知覚は、
そのためにあります。
 
知覚の中身を、仕分けするための、
時間や空間などの教条は、
言うまでもありません。
 
わたしたちは、
時間や空間のような、感性による分類基準や、
因果関係や定義や価値などのような、
論理法則による分類基準により、
けっして、
知覚の中身や対象を、仕分けするのでなく、
まず最初に、知覚の様態を分類して、
その結果としての、知覚の対象を、
知覚していると、言われています。
 
つまり、
事実や科学技術のような、知覚の対象は、
知覚の様態の、分類項目にすぎないと。
 
わたしたちは、
知覚の対象を、知覚しているのでなく、
自作自演の分類項目を、知覚しています。
 
概念の分類項目を、
知覚の対象と、錯覚するのは、
知覚が、表現の舞台であることを、
意味しています
 
目は、
知覚の対象の事実を、見ているのでなく、
概念の分類項目を提示して、
その是非を問うための、自作自演の、
知覚と言われる芸能の舞台にすぎないと。
 
千利休の茶道のように、甘い香りが漂います。
 
 
   他人とのコミュニケーションのために、
   言葉や絵や写真やビデオなどの、
   メディアの表現があると、
   このブログに、何度も書きましたが、
   ここまで来ると、
   知覚そのものが、メディアであると、
   わからなければいけません。
 
   目や耳などは、
   知るために在りますから、
   知覚がメディアであるのは、
   当たり前ですが、
   世間一般の人は、理解できません。
 
   実際に、目で見て、手で触ったことが、
   事実や物や科学技術などの、
   知覚の対象が、存在する証拠であると、
   世間一般の人は、確信しています。
 
   知覚の対象は、直接に、
   目や脳の中に、入りませんから、
   対象についての、何らかの資料が、
   目や脳の中に、入ります。
 
   目や脳は、知覚の対象について、
   観測して、情報を処理して、
   記憶すると、
   世間一般の人は、信じています。
 
   目は、受信器であり、
   脳は、コンピュータであると。
 
   だから、目や脳は、知覚の内容を、
   直接に、他人と共有することも、
   他人に伝えることも、できずに、
   言葉や絵や写真やビデオなどの、
   コミュニケーションのための
   メディアの表現を使い、間接的に、
   他人に伝えなければいけないと、
   何度も書いているのに・・・
 
   わたしたちは、他人の知覚の内容と、
   メディアの表現とが、
   同じであるか、違うかを、
   検証できませんから、
   知覚の内容は、
   完全に個人的なブラックボックスです。
 
   嘘を、自由につけます。
   たとえ、写真やビデオに撮っても、
   このビデオの内容と、
   わたしの知覚の内容は、同じであると、
   嘘をつけます。
   だれも、他人の判断を検証できません。
 
   それなら、
   知覚と、知覚の対象について、
   目が、受信器であり、
   知覚の対象が、事実であると、
   どのように、証明できますか。
 
   嘘でも、構わない。
   嘘の受信器と、嘘の事実でも、
   だれも、検証できません。
 
   
目は、表現のための、舞台でありませんか。
知覚は、事実を、自作自演していませんか。
わたしたちは、
自分で書いた台本を、知覚していませんか。
 
いつもの習慣なので、
二足歩行のように、無意識に足が出ますが、
ほんとうは、足を出せと、命令して、
歩いていませんか。
 
わたしたちが、何を知覚しようとも、
メディアの表現を使わなければ、
知覚の内容を、他人に伝えることが、
できませんから、
他人との間で、メディアの翻訳が必要です。
 
他人の、このメディアの表現は、
自分の、この知覚の内容と、同じであると、
翻訳しなければいけません。
 
写真であれ、ビデオであれ、
他人とのコミュニケーションのための
メディアが通じるのは、
言葉が通じるように、翻訳が出来るからです。
 
翻訳ができなければ、
言葉を話せるとは、言いません。
 
翻訳の原理は、他人と共通の論理法則であり、
論理法則の教条は、流行文化にすぎないと、
言われています。
 
時間や空間は、流行文化により、
判断の手順の遺伝的素質の組合わせが、
取捨選択されて、純化されただけであると。
 
取捨選択や純化は、ようするに人殺しです。 
 
 
   紀元前2500年の大昔から、
   わかる人は、瞬時にわかりますが、
   わからない人は、
   死ぬまで、わかりませんでした。
 
   生まれつきの遺伝形質によりますが、
   主に言葉を使った表現ですので、
   小学2年生くらいでなければ、
   瞬時に理解できません。
 
   中学生くらいになれば、
   言葉に習熟していますから、
   それでも、わからなければ、
   生まれつきに遺伝的素質を
   持ち合わせていない可能性が高く、
   おそらく、一生わかりません。
 
   ガリレオ・ガリレイは、
   自説を撤回しなければ、
   宗教裁判により、
   ジョルダーノ・ブルーノのように、
   火炙りになるところでしたが、
   現代では、もっとひどい。

   わたしのように述べると、
   精神医学により、
   強制的に精神病院に入院させられて、
   その日のうちに、
   抗精神病薬のロングライフのデポ剤を
   注射されますから、
   2週間後には、廃人になり、
   抗精神病薬がなければ、
   禁断症状に苦しみます。
   自力では、生涯、回復しません。
 
   統合失調症は、全人口の1%ですから、
   ガリレオの時代よりも、
   遥かに、残虐です。
 
   精神医療の名のもとに、
   ガリレオの時代よりも、
   残虐に大量に、人を殺していながら、
   世間一般の人が気づかないのは、
   精神医学の言うことを、
   世間の人が信じているからです。
 
   肉体を殺さずに、
   人格だけを殺しますから、
   統計上の死亡になりません。
 
   人格だけの死を、
   精神病の症状であると、
   精神科医は、言い抜けますので、
   一般人は、100万年懸かっても、
   たぶん、気づきません。
 
   ホモサピエンスの時代が続く限り、
   この残虐は、一般人にバレません。
   
   革命では、間に合わないことは、
   ナチスやソ連が、滅びても、
   事態がバレなかったことからも、
   わかります。
 
   麻原彰晃君は、それを狙いましたが、
   彼では、到底、無理でした。
   彼自身、気づいていませんでしたから。
 
   抗精神病薬を投与されれば、
   人格を失いますから、
   投与されるまでもなく、
   生まれつきに、
   人格を失っているかのように、
   権力に従順な人たちは、
   精神科医の言うことを、
   無条件に信じます。
 
   精神医学の歴史を見れば、
   残虐な治療が、
   いくらでも紹介されていて、
   北杜夫のような小説家は、
   現代の精神医療を、
   夜と霧とまで、表現して、
   ナチスの医療に喩えましたが、
   それでも、一般人は、気づきません。
 
   物理化学の規則性の発見は、
   特定の遺伝形質の紹介にすぎませんが、
   物理化学のファンは、
   一向に気づきません。
   
   それどころか、
   東京大学医学部学生も、
   教えてあげなければ、
   理解できませんから、仕方ありません。
 
   待っていては、
   ホモサピエンスである限り、
   改善を期待できません。
 
 
同音異義語は、
言葉の表示が同じでも、意味が違うので、
言葉は、
必ず、意味を確認しなければ、誤解する。
 
他人の知覚を、検証できないので、
他人の知覚を根拠にした言葉の意味を、
確認することは、原理的に不可能です。
 
わたしたちは、論理法則の運用や、
時間や空間の整合性などに、
矛盾がなければ、
同音異義語でないと、判断したことにするが、
論理法則の教条は、流行文化にすぎず、
時間の逆行を禁じる教条を除き、 
時間の順番に、いかなる規則性も、
発見できません。
 
このことから、
知覚の内容が、他人に伝えられたとするのは、
同音異義語の問題を、不問に付して、
知覚に関する言葉や絵や写真やビデオなどの、
メディアの表現によるコミュニケーションが、
錯覚であることを、隠蔽するためでなければ、
知覚が、本人以外の、他の情報の受信でなく、
むしろ、本人自身の情報を、表現するための、
情報の発信であることによると、
推測されます。
 
知覚が、
そもそも、コミュニケーションのための、
メディアであると。
 
 
   事実の知覚の問題は、
   妄想や幻覚などの、
   狭い意味での精神病の、
   統合失調症の症状とされるように、
   原理的に、他人に通じない、
   とする議論を、
   病気として、禁じています。
 
   ルネサンスの時代の、
   宗教裁判の手法を、
   ロマン主義が利用して、
   他の思想を、強圧的に禁じるために、
   精神病という概念が、作られました。
 
   精神病の診断が、
   宗教裁判と同じ意味であることに、
   一般の人たちは、気づきません。
 
   知覚の共有不可能と、
   同音異義語によるコミュニケーション
   が、原因です。
 
   人々が、
   他人とのコミュニケーションを、
   重視すれば、するほど、
   一般の裁判に拠らずに、
   宗教裁判を継承した精神病の診断を、
   無条件に支持することになります。
 
   裁判制度が、
   宗教裁判を継承した精神医療により、
   底抜けになる仕組みに、
   世間一般の人が、気づかないのは、
   知覚とコミュニケーションの仕組みを、
   理解できないからです。
   
   
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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