春楡は、花も実も、みすぼらしく、
東京の公園に、栽植する理由が、
ないのかも知れません。
札幌で見慣れた木を、東京で見掛けると、
やあと、肩を叩きます。
馴れたことを、変更できなくなれば、
発達や成長と言われて、
褒められるようなものですので、
プラトンの想起説よろしく、
人は、生まれつきのプログラムや、
乳幼児の経験を、大切にするようになります。
変化が、しんどくても、
生まれ育った境遇と、
家庭や育児や生殖などに、安住すれば良い。
経験や帰属や世代交代などの気持ちは、
老化にすぎないのに。
人は老いて、赤ちゃんや青少年になり、
眠りや性欲に、耽ります。
生まれつきの素質や、過去の経験を、
変更不能にして、
あたかも、鍵を掛けるので、
わたしたちは、時間を逆行できません。
憲法を改正して、
廃止するのが、良いでしょう。
本位貨幣が不要であったように、
時間の撤廃が、コンピュータの課題です。
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万延遣米使節の新見正興の日記を、
読んでいます。
デジタル版が、
国会図書館から、無料公開されていますので、
気軽です。
通商条約の批准書を交換するために、
1860年2月に、品川から
アメリカ軍艦ポータハンに乗船して、
サンフランシスコ経由で、
パナマに到着しました。
汽車でパナマ地峡を超え、
コロンから、アメリカ軍艦ロアノークに乗り、
5月に、ワシントン着。
批准書を交換した後に、汽車で、
フィラデルフィア、ニューヨークに移動。
市中見学後、6月末に、
アメリカ軍艦ナイアガラに乗船して、
喜望峰、香港経由で、
1860年11月に、帰国している。
使節団77人+数名の、ほぼ全員が、
日記を残しているはずですが、
ほとんどは、未発見、もしくは未公表です。
記録係の公式の記録のほかは、
3人の使節と、主要な随員の日記しか、
読めません。
名簿に記載されていない数名が、不思議で、
使節団に随行したとして、
土産(みやげ)話を伝えています。
噂(うわさ)を、自分の経験談として、
他人に伝えたと、言うよりも、
定員外の便乗者を、
アメリカ軍に認めさせたのでしょう。
アメリカ軍艦とは別に、
日本の咸臨丸が、護衛と称して、
サンフランシスコまで、同行していますが、
サンフランシスコで、
使節団と会っただけです。
無線がありませんから、
途中は、連絡不能の別行動でした。
咸臨丸のほうに、福沢諭吉が乗り、
サンフランシスコで、
ちゃっかり、少女と写真を撮っています。
売春婦でしょうか。
使節団にしても、咸臨丸にしても、
アメリカ軍が、
その種の女性を、世話してくれたはずです。
咸臨丸は、嵐に遭い、損傷したので、
サンフランシスコで修理後に、
帰国しましたが、
往きは、アメリカ海軍の測量船乗員と、
海軍技師ブルック(John Brooke)が、
帰りも、アメリカ水夫が操船しました。
万延遣米使節団の主要な人は、
明治維新前後に死亡して、
子孫に、重要人物がいませんので、
幕府方に付いた人たちにとって、
幕末維新の動乱が、
骨折り損のくたびれ儲けになったのは、
ほぼ確実です。
新見正興の孫が、柳原白蓮ですが、
これも、子孫は有耶無耶。
使節団一行は、ほぼ全滅かも。
遣米使節という華々しい履歴に、
相応(ふさわ)しい人生や子孫を残した人は、
1人もいません。
全滅です。
徳川に付いたことが、悪かったのか、
それとも、
使節団に参加しただけでは、役に立たず
やはり、留学でなければ、ダメだったのか。
使節団一行には、
物事(ものごと)を、お膳立てする能力が、
皆無でした。
すべてを、
アメリカ軍が準備して、接待しましたから、
日本人には、
スケジュールを立てて、
旅行を計画する能力が、ありません。
観光旅行よりも、劣る。
この能力が、
子孫に、要人が1人もいない原因なのか、
それとも、
徳川幕府が賊軍とされたから、
子孫が冷遇されたのか。
護衛と称した咸臨丸のほうは、
勝海舟と福沢諭吉が、名を上げましたが、
勝は、虚仮威(こけおど)しで、
福沢は、遊び人の慶応ボーイですから、
碌(ろく)なのは、いない。
使節団正使の新見正興の日記は、
紀貫之の土佐日記を読む感じで、
この人は、
政治能力ゼロ、実務能力ゼロの、
和歌や将棋に、明け暮れるだけの、
無用の侍(さむらい)でなかったかと、
疑います。
陰間奉行と言われたくらいに、
幕末から、美貌で有名でしたが、
柳原白蓮の祖父ですから、お似合いです。
2人の写真が似ています。
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