春の料亭の庭 0120 知覚の形而上学と、新しい社会の予感や期待

まず、ありませんので、
ポケットからカメラを出して、
写真を撮りました。
わたしはアホです。
 
こんな庭だったのかと、
初めて知りました、御近所なのに。
 
足元に、
照明器具を嵌(は)め込まれた岩の柱が、
立っていましたが、
わたしは、本物かどうか、触ってみました。
 
プラスチックでありませんが、
もしかしたら、
サイディング(siding)に使うセメント製の、
模造岩石かもと。
本物の橄欖(かんらん)岩でした。
 
手前の躑躅が、すでに蕾を持っていますが、
桜の花びらが、1枚も落ちていませんから、
なかなか、渋い庭です。
 
左の建物の屋根は、ドイツやオランダの、
お金持ちの家の茅葺屋根の感じ。
 
高級官僚や大企業の経営者を、接待するのは、
数時間につき1人30万円で済めば、安いが、
数10分しか、引き留めて置けません。
 
中曽根康弘の日の出山荘よりも、
桁違いに、よく手入れされています。
永田町まで歩いて10分の都心ですから。
 
この木は、クロガネモチでしょうか?
 
   
   ***    ***
 
 
知覚の中身を、
他人と共有することが出来ないために、
言葉や写真などの、メディアの表現を、
他人と共有するしか、
知覚の中身を、他人に伝える手段が、
ありません。
 
人間の、目や耳や皮膚や手などの、
感覚器官の存在も、知覚されるので、
わたしたちは、目や耳を使い、
事実を知覚していると、確信するけれど、
知覚の内容を、他人と共有できませんので、
言葉や絵や写真などの、
コミュニケーションのための、
メディアの表現のみを、
他人と共有することにより、
存在するという知覚の対象を、
他人に伝えることができたと、
誤解しているだけです。
 
伝えたのは、メディアの表現であり、
知覚の中身でないことは、明白です。
 
目や耳がある、という言葉を、
他人と共有しても、
実際に目や耳がある、という証拠に、
なりません。
 
嘘や間違いでないことを、
検証できませんから。
 
知覚の対象を、知覚しないで、
他人に伝えることも、出来ません。
 
 
   言葉でなく、写真に撮れば、
   嘘や間違いでないと、
   検証できるでしょうか。
 
   写真に撮っても、
   基本的には、絵に描く場合と、
   同じです。
 
   その絵や写真を、他人が見て、
   確かに、あなたには、目や耳があると、
   検証できるのなら、
   絵や写真に頼るまでもなく、
   他人が、直接に、
   あなたの目や耳を見て、
   確かに、あなたには目や耳があると、
   言えば良いでしょう。
 
   それでは、あなたに目や耳がある、
   とするあなたの知覚を、
   他人が検証したことになりません。
 
   あなたの知覚を検証するために、
   他人の知覚を使うのなら、
   他人の知覚を、
   だれが検証するのですか。
 
   それでも、
   あなたの知覚と、他人の知覚が、
   一致したとして、
   2人前の確証が得られたと、
   言えるでしょうか。
 
   あなたと他人の知覚が、一致したと、
   どうして、わかりますか。
   あなたがたは、知覚を表現するための、
   言葉を共有しただけでありませんか。
 
   知覚が一致したのでなく、
   同じ言葉を使っただけでありませんか。
  
 
同音異義語が、知覚の根本問題であると、
わかりましたか?
言葉の代わりに、写真を使っても、同じです。
 
同じ言葉を使っただけでは、
意味が同じと、証明できないように、
同じ写真を使っただけでは、
同音異義語を使ったのと、同じでしょう?
 
同音異義語の問題は、
何を言わんとしていると、思いますか。
 
 
   わたしたちは、自分の身体に、
   目や耳や鼻や手足の皮膚などの、
   感覚器官があることさえ、
   あるという知覚を、
   他人と共有することが、出来ないので、
   あるという言葉の表現を、
   他人と共有したり、
   絵や写真やボイスレコーダや
   ビデオなどの、
   コミュニケーションのための、
   メディアの表現を、
   他人と共有するしか、仕方ありません。
 
   わたしたちは、表現を、
   他人と共有するしか、出来ませんので、
   表現が同じでも、同音異義語のように、
   意味が違うかも知れません。
 
   意味も同じであると、
   どのようにして、証明しますか。
 
 
個人の知覚の中身を、
他人は、コピーできないだけでなく、
閲覧することも、できません。
 
言葉や写真などの、
他人とのコミュニケーションのための、
メディアを表現を、共有することしか、
出来ませんので、
表現が、表現されたことと、同じであると、
本人しか検証できません。
 
他人は、嘘や間違いと、ほんとうを、
検証したり識別したりが、出来ませんから、
個人の知覚の中身って、他人にとっては、
嘘八百と同じになってしまいます。
 
わたしたちが、それでも、
知覚の中身を、嘘でないと、信じるのは、
他人の知覚だけでなく、自分の知覚が、
1人だけの真実であれば、
限りなく寂しいからで、ありませんか。
 
コミュニケーションにより、
他人に通じると、信じたい。
 
夢を信じているのでなければ、
わたしたちは、
知覚の中身に通じる規則性を、
他人と共有していると、言われています。
 
論理法則や自然の摂理のような、規則性が、
他人と同じであると、信じていますので、
果たして、他人と同じ規則性があるのかと、
知りたくなります。
 
物理化学者は、
論理法則や自然の摂理が、
遺伝的素質と同じであると、信じていますが、
幾つもの矛盾する遺伝的素質があり、
生まれつきの無数の組合わせが、
1人1人により異なることを、
わたしたちは知っています。
 
遺伝的素質が違うのに、
共通の規則性があるのでしょうか。
 
共通の論理法則や、共通の自然法則などの、
共通の規則性は、
ただの日本国憲法のような、
捏(で)っち上げでないのでしょうか。
 
だれも、合意した覚えもなければ、
生まれつきの変更不能なものでもなく、
戦争に負けたので、押し付けられただけで、
みんなに共通と言われるのは、
ただの権力のお題目にすぎません。
 
革命により、権力を血だるまにして、
殺してやることも出来るように、
論理法則や、物理化学の法則も、
権力の教条に、すぎないのでありませんか。
 
物理化学の共通性は、
鉄砲や黒船や原爆やコンピュータなどに、
守られているだけでありませんか。
 
飛行機が空を飛ぶのも、
100階建てのビルが立っているのも、
生まれつきに共通の、
論理法則や自然法則のせいでなく、
鉄砲や黒船や原爆などの、
武器や戦力が、
立ちはだかっているだけで、ありませんか。
 
 
   日本国憲法のような自然法則は、
   幼稚すぎる。
  
   自民党や安倍晋三君や籠池君などの
   憲法改正が、滑稽であると、
   わかります。
 
   コンピュータが、
   マッカーサや日本国憲法のような、
   19世紀風のロマンシティズムとは、
   到底、思えません。
 
   DNAの塩基配列は、コンピュータを使い、
   全部再現できますから、
   個人の遺伝情報の組合わせを、
   ヌクレオチドのレベルで、
   管理できます。
 
   個体や個人の単位で、
   社会を考える必要は、ありませんから、
   戸籍だけでなく、個人主義そのものが、
   時代遅れです。
 
   なんで、安倍君や籠池君のような、
   しょうもない憲法改正なんでしょうか。
 
   わたしたちは、戦争に負けたから、
   日本国憲法に平伏しているように、
   論理法則や物理化学の法則を、
   強要されているだけでありませんか。
 
   第二次世界大戦の頃に、
   日本の学校には、
   奉安殿という祠(ほこら)があり、
   天皇の写真と教育勅語が、
   納められていました。
 
   空襲にも耐えられるように、
   頑丈な作りになっていましたので、
   わたしの通った高校には、
   まだ壊れずに、残っていました。
 
   安倍君や籠池君を、
   奉安殿に収納すべきでありませんか。
   鍵を掛ければ、空襲にも耐えられます。
 
   わたしたちが為すべき憲法改正の前に、
   まず、日本国憲法もろともに、
   ロマンティックな法治主義を、
   木端微塵に破壊する必要が、
   ありませんか。
   
   そうでなければ、
   個体や個人や家族や国家などを
   単位にした社会は、無くなりません。
 
   ほんとうに、生物は死ぬと、
   思いますか。
 
   生命は、たぶん、
   1つながりと思いますが、
   少なくとも、
   個体の単位で、独立はしていません。
  
   個体が死んでも、
   1つながりの生命が、
   死ぬわけでありませんから、
   個体の単位で、事務処理をしなければ、
   個人は死にません。
   当たり前ですが・・・
 
   個体や個人や自分という意識などは、
   生命を、事務的に管理するための、
   作られた文化にすぎませんから、
   個体単位のエステティックな管理を
   変更すれば、個体は死にません。
 
   当たり前ですが、
   個体中心のエステティックな文化を、
   事務的に受け継ぐ必要は、
   何もありません。
   コンピュータは、
   ヌクレオチドの組合わせを、
   シミュレートできますから。
 
   日本国憲法を、改正するよりも、
   ぶち壊さなければいけないのは、
   欧米のロマンティックな考え方を、
   根本から廃止する必要があるからです。
 
   法治主義や科学主義や個人主義なども、
   やめたほうが良いと、
   わたしは思っています。
 
   法治主義や科学主義をやめると言うか、
   論理法則も併せて、
   みんなに共通の人為的な規則性は、
   1本に纏めるのが、
   わかりやすいと、思っています。
   どうせ、人工の教条ですから。
 
   個人主義をやめて、
   死なないようにします。
   個体の死は、細胞の死と同様に、
   新陳代謝ですから、
   悲しんだり喜んだり憎んだりするのは、
   ただの文学の趣向です。
   べつに禁止することでもなく、
   どうでもよろしい。
   
   脳みそは、持ち運びに便利ですが、
   コンピュータで済ませたほうが、
   簡単にコピーが出来て、便利です。
   
   最初から、脳みそを使って考えずに、
   コンピュータを使って考えたほうが、
   汎用性を確保しやすいと、思います。
 
   憲法改正とは、要するに、
   ハードとソフトを問わず、
   コンピューターの作り方や使い方の、
   共通の規則を作ることです。
 
   鉄砲や黒船や原爆の規制と、同じです。
   実効力の確保が、
   議論されなければいけません。
 
   安倍君や籠池君の主張は、
   奉安殿に放り込んで、
   鍵を掛けて置けば、
   空襲にも耐えますから、
   本人も喜ぶでしょう。
 
   
   



精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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