雌花序は、この枝の先っちょの、
若葉の開きかけている所から、
小さい尾状花序が垂れ下がります。
写真の雄花序のほうは、
去年の枝の、まだ葉の出ていない所から、
垂れ下がりますが、
すぐ後を追うように、花序の付け根の脇から、
今年の若葉が出て来ます。
花は、雄花序のほうが、立派で、
枝の先端からぶら下がる雌花序は、貧弱です。
でも、
雄花序は、花粉を飛ばすと、御用済みで、
枯れて、落下しますが、
雌花序は、受粉して、実が熟すと、
熊のように丸々と太り、
種(たね)を飛ばした後も、
来年の早春まで、ぶら下がったまま、
目を楽しませてくれます。
雌雄同株ですから、気にしませんが、
雌雄異株の庭木は、
♂と♀で、ぜんぜん違いますから、
シシャモみたいに、要注意です。
雄のシシャモって、おいしい?
精神科の医者みたいに、お断り。
煮ても焼いても、フライに揚げても、
食いようがないから、猫の餌。
*** ***
このブログは、
性別違和(性同一性障害,性転換志向)や
精神病(統合失調症)のことを、
書いています。
病気でないのに、診断基準では、
病気と規定されていますから、
健康な人が、病気と診断されます。
性転換は、当人の望みにより、
医者が、身体を破壊します。
統合失調症は、当人が拒否しているのに、
医者が強制的に、脳や身体を破壊します。
このブログでは、
性転換は、医療のせいで、
当人が、ほんとうは望んでいないのに、
望んでいるかのように、確信すると、
書いています。
ほんとうって、何でしょうか。
自分という気持ちは、もとより、
個体の、望みや意志は、文化の産物ですから、
身体と意志の、因果関係は、
ロマンティックなエステティックの、
典型です。
統合失調症は、
当人に、何の違法行為もなく、
事実の、証拠や証明や裁判もないままに、
病気の、診断や治療と称して、
処刑するように、個人の人格を、
不可逆的に、闇から闇に、葬り去ります。
権力の恣意を、
一般の人たちは、認識できません。
いずれも、当人が、孤立無援です。
原因のほぼすべてが、
身体の外観のエステティックにあり、
他人と識別される身体上の特徴を、
社会から攻撃されるので、
孤立した精神が、
性転換を望んだり、
精神病と診断されたりします。
たとえば、
身長に対する足の比率が小さければ、
逆上がりが出来ないのは、当然なのに、
瞬時にわかる遺伝的素質の幼児と、
生涯わからない遺伝的素質の人がいて、
わからない人のほうが、
圧倒的多数派です。
足の比率も、遺伝形質であり、
身長が同じなら、
日本人の足の比率は、長くなりません。
経験を変えても、変更できないことは、
ほとんどが、
遺伝形質の組合わせにすぎませんが、
ロマン主義では、
個人の自我や精神などと、表現します。
精神科医は、外観のエステティックを、
性欲のように重視しますが、
内科医は、臓器や組織や細胞などの
エステティックを、大切にします。
形は、機能の異常を、表わしていると、
エステティックは考えますが、
臓器や組織などの機能は、明快でも、
個体の機能が、世代交代のための
性欲であるとする精神医学は、
不明瞭です。
ロマン主義は、
組織や細胞に及ばずに、滅びましたが、
原子や素粒子などの形而上学は、
精神や数学に似て、
今もロマンティックです。
性別違和や精神病などは、
精神科と権力が、結託して、
嫌(いや)な奴を、
恣意的に間引いているだけと、
わたしは疑います。
個体に対する権力の、公的なイジメです。
精神医学や精神医療は、
ロマンティックな時代の、野蛮な権力に、
精神科医が、魅せられただけと、
一般の人は、気づきません。
精神科医のほうが、精神病でないかと。
世界の精神科医は、
麻原彰晃と同様の精神状態にあると、
わたしは、診(み)ています。
権力により、人類は進化したと、
ロマンティックな人たちは、信じます。
社会は、わたしたちの望む方向に、
進歩しなければいけない。
わたしは、
そんなロマンティックな虚妄を、
信じたことがありません。
どうせ死にますから、
猿でもバイ菌でも、何でもよろしい。
仲間を殺して、抜け駆けをするように、
猿を殺して人間になりたいと、
思いません。
自分を、人間と思うのは、
権力に教え込まれた癖(くせ)です。
自分らしくないほうが、爽やかなのに。
麻原彰晃は、
ゴーラクナート(Gorakhnāth)の
ヨガを、信じていましたが、
エステティックや精神分析などの、
身体と性欲を基準にしたロマン主義は、
古代インドのシャイバ(Saiva)の
延長のようなもので、
イエス・キリストの、孤立した精神を
忘れたことが、
ロマン主義と言われる間違いの
原因でした。
2度の世界大戦を起こして、
花と散ったロマン主義の、
レーニンやヒトラーの心と、
処女懐胎の私生児のために、
村八分になり、
故郷の村の長老による洗礼を
受けられなかったキリストや、
盲学校出身の麻原彰晃の心などは、
経験の内容だけでなく、
知覚の規則性が、根本的に違います。
レーニンやヒトラーの経験は、
極楽蜻蛉に近いが、
わたしは、キリストや麻原君の、
遺伝的素質が気になります。
生涯の記憶の99.99%以上は、
たぶん、だれにも伝えられませんから、
なんのために経験して考えて記憶したのかと、
思いやられます。
経験は他人に伝えられるものでないのに、
目や耳や手などの、
知覚するための感覚器官を持つ個体は、
シバ神の
中央集権として纏められた神々や概念の、
けっして、系譜や分類の末端でないと、
ヨガの行者たちは、主張しました。
進化の系統の末端に、
現生生物の種(しゅ)や個体があるのでなく、
個体の身体の中に、
進化の系譜が記憶されているように、
ヨガの行者は、身体の中に隠された真理を、
見ることが出来ると、言いました。
ヨガ行派の教祖のゴーラクナートや
麻原彰晃君だけでなく、
ヨーロッパのロマンティックな人たちも、
そう考えました。
遺伝子によるAPG分類と同じ理屈ですが、
わたしは、ヨガや精神医学のような、
エステティックでは、見えないと、思います。
どこが、エステティックかと、
文句を言う人も、いるかも知れませんが、
遺伝子でなければ、
身体の内外や、部分の大小を、問わず、
身体の外観しか、個体を識別できないのは、
言うまでもありません。
言葉は、エステティックでありませんが、
妄想の診断を見ればわかるように、
一般に、精神科医は、言葉を理解する能力が、
ありません。
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