リキュウバイ 利休梅 0113 知覚される遺伝形質と、文化による純化

飽きて来ます。
 
それでも早春ですと、待ち遠しいのですが、
桜の季節は、うんざりです。
 
19世紀末の、日清戦争の頃に、
中国から、持ち帰ったそうで、
千利休と、何の関係もありませんが、
茶花(ちゃばな)として利用されたので、
この名になったのかも。
 
これを、梅と間違える人は、いませんから、
彼の人生と同じく、謎に満ちています。
 
なんで、切腹しなければいけなかったのか、
さっぱり、わかりませんが、
なんとなく秀吉を、馬鹿にしている風情が、
ありましたので、
秀吉は、金箔の茶室を作りました。
 
これは、素晴らしい。
利休は、すでに63才でしたから、
理解できなかったはずです。
 
切腹は、69才ですから、
殺す必要も、ありませんでした。
 
利久梅と、書く人もいるように、
千利休と、
関係のないネーミングだったのかも
知れません。
 
わたしは、茶の湯よりも、
切腹のほうを、思い出します。
お茶を飲みながら、千利休の切腹を見ると、
美味しいかも知れません。
 
白い花、緑の茶、赤い血で、
青空があれば、バランスが最高です。
女性は、リキュウバイや茶の湯が、
好きなはずです。
 
 
   ***   ***
 
 
わたしたちは、
物を知覚しているように、感じますが、
知覚の内容を、
他人と共有することができません。
 
言葉や絵や写真やビデオなどの、
他人とのコミュニケーションのための、
メディアの表現を、
他人と共有することにより、
他人に、知覚の内容を伝えたと、
思っています。
 
たとえば、
アーモンドという言葉を、
他人と共有することにより、
知覚の内容を、伝えたことにしていますが、
アーモンドと言われる音声や文字などの、
メディアの表現としての言葉と、
知覚の内容の、
アーモンドと言われる木や実は、違います。
 
それなのに、
違うものを、同じであると、定義することが、
論理法則の基本です。
 
言葉のかわりに、写真を使っても、
事情は同じです。
 
コミュニケーションのためのメディアの、
写真と言われる表現を、
他人と共有することは、できますが
写真に写されているアーモンドの花のほうを、
他人と共有していないだけでなく、
写真の影像が、
その人の知覚の中身と、同じであることを、
他人は検証できません。
 
わたしたちは、その人が、
写真を示して、この花を見たと、言うので、
その言葉を信じている振りを、
しているだけです。
 
写真と、その人の知覚の中身が、
同じであるのか、
それとも、嘘や間違いであるのかを、
検証することが、できません。
 
写真は、平面的な影像ですが、
知覚の中身は、立体的な記憶です。
実物のアーモンドの花は、
脳の中に咲きませんし、
写真にも、貼りつけられていませんので、
実物と、知覚の中身と、写真の影像とが、
それぞれに違うことは、明白です。
 
違う物や事を、同じであると、
定義しています。
 
その人の、個人的な定義が、
正しい定義であるか、
それとも、嘘や間違いの定義であるかを、
どのように、見究めることが、できますか。
 
そもそも、定義は、人の勝手ですから、
嘘や間違いでなく、
他人の定義との、異同や、
別の物事(ものごと)の定義との、整合性が、
問題になるだけです。
 
 
   わたしたちが、物を知覚していると、
   感じるのは、個人的な定義であり、
   他人と共有できるのは、
   コミュニケーションのための、
   メディアの表現だけですので、
   ほんとうは、
   物を知覚しているのでなく、
   何らかの規則性を、主張するために、
   物を知覚したと、
   表現しているだけかも、知れません。
 
   規則性しか、検証の基準が、
   ありません。
 
   目や耳や皮膚などの、感覚器官は、
   規則性を知覚するための、道具であり、
   カメラやボイスレコーダなども、
   物を記録しているのでなく、
   規則性を記録しているだけでないかと、
   疑われます。
 
   つまり、物でなく、事を、
   知覚したり記録したりしています。
 
   個人的な規則性なんて、いくらでも、
   でっち上げられますが、
   多数の人の規則性や、
   多数の事の規則性は、
   そう簡単に、でっち上げられません。
 
   金本位制よりも、
   それを廃止したほうが、
   むしろ確実です。
 
   紙幣を、いくらでも印刷すれば良い、
   というわけには、行きません。

   他人の知覚を、検証できない、
   ということは、
   音や音楽のように、物で無く、
   振動している事を、
   何らかの規則性として、知覚したり、
   他人に伝えたりしているのと、
   同じ意味です。
 
   規則性としての知覚の内容は、
   他人に伝える事実だけでなく、
   知覚の全部でないかと、疑われます。
 
   わたしたちは、概念や事実を、
   知覚しているにすぎないと。

   アメリカザリガニを、
   法律により処罰する裁判官が、
   あほに決まっているのと同じように、
   法治主義が、個人を規制するのは、
   いくらでも、
   でっち上げられる規則性により、
   他人を、好き放題に殺すのと、
   違うのかと、疑われます。
  
   茶道の形式は、
   その典型的な規則性です。

   戦争に勝ったアメリカが、
   日本国憲法を作りましたから、
   裁判官が、一介の軍人のマッカーサの、
   子分にすぎないのは、当然です。
   
   千利休と豊臣秀吉のように。
   
   
いいや。
好き放題でなく、生まれつきの
変更不能な規則性のプログラムに
従っている。
 
そして、そのプログラムは、
主として、アミノ酸を組合わせて、
各種のタンパク質を作ることであり、
法治主義は、組合わせの優劣を、
量の多少により競いますから、民主的です。
 
わたしたちが、造化の妙と言い、
知覚の中身を、崇め奉るのは、
遺伝形質と言われる知覚の規則性を、
信じているだけですから、
コンピュータや樹状突起のような、
0と1や枝分かれの組合わせが、
見えていません。
   
機械のOnとOffの、特定の組合わせの単位を、
アーモンドの花と知覚しようが、
アメリカザリガニの卵と知覚しようが、
概念や事実のようなニモニックにすぎません。
 
法律家が、それを理解できないのは、
頭が悪いだけです。
 
 
   コンピュータや脳の中の、
   どこを探しても、特定の、
   OnとOffや枝分かれの、組合わせと、
   音声や映像の関係を、
   規定しているだけであり、
   その根拠の文化を、見つけることが、
   できません。
 
   わたしたちは、個人的な知覚から、
   みんなの文化が作られたと、
   ロマンティックに教えられていますが、
   文化は、
   個人の知覚であれ、集団の知覚であれ、
   微塵も、知覚を根拠にしていません。
 
   そもそも、集団の知覚なんて、
   だれも知りませんし、
   個人の知覚を、他人は共有できません。
 
   知覚と、一切無関係の、集団の文化が、
   あたかも、多数の個人の知覚を、
   集約しているかのように、
   なぜ、人は誤解したのでしょうか。
 
   文化が、だれの知覚にも、
   依拠していないだけでなく、
   反対に、文化的に淘汰された規則性を、
   個人は、物や事実や概念などとして、
   知覚している可能性が高い。
 
   そのせいで、
   文化が知覚に拠らなくても、
   知覚が文化を根拠としているので、
   知覚と文化の規則性に、
   矛盾が生じません。
 
   誤解というよりも、迎合かも。
   忖度という言葉も、あります。
 
   統合失調症の仕組みが、単に
   抗精神病薬による医原病でなく、
   文化に迎合しないで、孤立する人を、
   イジメる医療にあると、わかります。
 
   ブルドックやダックスフンドを、
   文化的に取捨選択することが、
   遺伝形質を
   純化(じゅんか)するように、
   文化が、遺伝の内容を、
   決定的に左右します。
 
 
   

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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