浦賀水道の向こうを見ても、
明けても暮れても、この光景。
すぐに、飽きて来ます。
人生と同じ。
変わり映えのしない毎日を見て、
死んで行くだけ。
生まれて来なければよかった。
1時間で、飽き飽きします。
苦しいことや辛いことのほうが、
きっと、素晴らしい。
そのために、死ねるのなら、本望です。
楽しいことは、もう御免。
*** ***
判断の根拠は何か、
それを正当とする根拠は何かを、書いています。
法律を根拠とするなら、簡単なようですが、
合法と違法を、判断しなければいけません。
その判断の仕方は、法律に書かれていません。
判例は、判決により成り立つにもかかわらず、
法律から導き出された判決であるとする理由が、
恣意的です。
判断の根拠は、合理的に類推されると、
思っている人も、いるかも知れませんが、
論理法則の教条は、
遺伝形質の組合わせを示す個人の知覚の仕組に
由来していますので、人それぞれに違います。
個人の知覚はあっても、みんなの知覚はないように、
みんなの論理法則を、どのように導き出すかは、
憲法はもとより、どこにも明示されていません。
数学者に聞く人も、いるかも知れません。
知覚されない事実を、数量化して、
正しく類推することが出来るから、
数学は、科学の原動力となり、
計画的な技術の発達を、実現したと、
言うかも知れません。
科学の規則性は、
みんなに支持された技術から、抽出されますが、
その規則性から、新しい技術を導き出すのは、
原理的に不可能でないかと、疑われます。
これまでの技術と規則性に、変わりがなければ、
それを知らない人に、未来の一部を予言して、
予言通りになることを、実証するのは、
科学技術でなくても、詐欺の一種かも知れませんが、
技術と言われる複数の事実と、
それらの事実の間の規則性は、
特定の条件が同じなら、将来も変化しません。
条件が変われば、規則性も変わりますから、
科学技術の予言が、はずれるのは、当たり前です。
条件の変化を、知らなければ、
たぶん、規則性を導き出せませんから、
条件を特定することと、規則性を知ることは、
ほとんど同じ意味です。
知覚の内容を特定することと、
知覚することは、同じでないかと、疑われます。
条件を特定することが、知覚でないかと。
科学は、条件を提示することにより、
知覚の内容を指定するだけでないかと、
疑われます。
指定することが、知覚することでないかと。
わたしたちは、知覚の内容を指定した通りに、
知覚できます。
時間と場所を、条件として、知覚を指定することは、
その時間のその場所に、行くことです。
時間と場所という知覚の条件を、特定すれば、
その内容を知覚することになります。
知覚の条件の指定と、知覚の内容の特定が、
同じ意味なら、
科学が、条件を特定すれば、
その通りの未来が知覚されるのは、当たり前です。
わたしたちが、技術と言わずに、
科学技術と言うのは、
その意味を知らずに、妙な思想を吹き込まれて、
宗教のように、崇拝しているだけかも知れません。
科学は、宗教のように、科学者それぞれの、
特定の形而上学的な思想を意味していますので、
科学技術と言わずに、
普通に、技術と言って置くのが、良い。
17世紀西欧特有のカトリック教会と世俗社会の
形而上学上の争いが、
現代日本にあると思いませんので、
科学は、ほとんど役に立ちません。
ただの技術と規則性が、役に立つだけです。
わたしたちは、知覚の外のことを、
知覚したことがありませんから、
知覚の外のことが、在るのか無いのかを、
知りません。
わたしたちが知覚したことの、すべては、
特定の条件により、知覚された内容であり、
条件の外のことを、
わたしたちは、知覚したことがありません。
特定の条件を知らなければ、
知覚の内容の規則性を、知らないのは、当然です。
規則性を知るのと、条件を知るのとは、同じです。
知覚の条件を特定すれば、
知覚の内容が規定されます。
すなわち、知覚されます。
科学は、そう言っているだけです。
知覚の条件を規定すれば、知覚されるとは、
こうすれば、必ずこうなると、
科学技術を使い、将来を実証することと、
同じです。
水を電気分解すれば、酸素と水素が出てくると、
科学は予言します。
実際にやってみれば、その通りになりますから、
未来の一部を予言して、言い当てたと、言えます。
それは、水を電気分解すれば、
酸素と水素が出てくると、知覚を規定したので、
その通りに知覚されただけでないかと、
疑われます。
規則性の通りに、知覚されるのは
文法の通りに、言葉を喋るのと、同じでないかと。
べつに、文法の通りでなくても、
言葉は、通じれば良いのですから、人の勝手ですが、
文法の通りですと、わかりやすくて、教育的です。
小学5年生の教科書には、
一方の試験管に溜まった気体に、
火のついた線香を入れると、
激しく燃えるので、酸素とわかり、
もう一方に入れると、ポンと爆発するので、
水素とわかるって、書いてありました。
わかるワケがない。
わたしは、知覚のあることを、知っていますが、
他人は、知覚の登場人物であっても、
知覚の外に、他人が存在することや、
他人にも、知覚のあることを、わたしは知りません。
知覚の登場人物が、俺にも知覚があると、言っても、
わたしには、検証できません。
個人の知覚を、他人は検証できないから、
こうすれば、必ずこうなると、
科学が予言したことは、必ず当たります。
そんな登場人物が、
わたしと同じ人間であるはずがありません。
ただの知覚の中の登場人物と、
知覚という劇場を提供しているわたしとが、
同等の資格でないのは、言うまでもありません。
戦争や憲法や裁判や医療などは、
劇の中の、台詞(せりふ)の出来事なのに、
劇場の経営を、揺るがします。
なぜ、台本が、劇場に強制力を持つのか。
たぶん、劇を見ている観衆が、悪さをするのでないかと、
精神病患者は推測します。
彼の言うには、
劇を見ている観衆や、劇場の経営者のわたしが、
一緒に暮らしている社会が、知覚の外にあり、
その社会に、憲法や裁判や医療や戦争や家庭や皇室などの、
個人を超えた力があり、劇場の経営に茶々を入れます。
彼は、他人という生物がいると、驚くべきことを言います。
そんな奴とは、劇の中でしか、会ったことがない。
さっそく、台本を書き換えよう。
ミュージカル映画のように、
道を歩いてる人間が、いきなり歌い出したら、
話がややこしくなる。
でも、わたしは、ミュージカルが好きだなあ。
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