フウの実とスズメ 0057 判断の枝分かれと、樹状突起や進化や計算や知覚


 
フウはマンサク科ですので、マンサクのように、
たくさんの花が、群がって咲きます。
球状花序です。
 
フウは、雌雄同株ですが、
雄花だけの幾つかの花序の付いた花軸の、
根元のほうに、雌花だけの花序が、付きます。
 
雌雄異花は、このタイプが普通と思います。
1セットの花序の、上のほうは雄花ばかりで、
1番下に、雌花が1個だけとか。
 
花びらがなく、雌花の雌しべが、
集合果の突起として残ります。
1個の花に、1本の雌しべです。
雌しべの先端は、2本に分かれますが、
下のほうの1本の部分だけが、
イガイガの突起になります。
 
写真のイガイガは、雌花だけの球状花序の全体です。
1つの穴が、1つの花の1本の雌しべの下の、
1個の子房に由来します。
 
1つの子房の中の、多数の胚珠の内の、
1個が熟して、翼を持つ種子に成長しますが、
種子ですから、翼果と呼ぶべきかどうか・・・
 
 
   花序の軸と花托の識別や、種皮と果皮の識別などが、
   集合果と多花果の違いになりますが、
   芽が枝分かれして、分化するたびに、
   枝や葉や花軸や花柄や萼や花托などと、
   だんだんと、
   子房の中の胚珠に近づいて行きますから、
   枝分かれの回数と前後関係から、
   これは、花托が膨らみ、子房を取り囲んだとか、
   花序の軸の中に、子房が埋没したとかと、
   進化や成長の枝分かれを、解釈します。
 
   すべての手順を経た進化の枝分かれを
   想定しますから、
   人間の脳の判断の枝分かれが、
   すべての判断の組合わせを表現できるくらいに、
   頻繁で均一な樹状突起があれば、
   汎用的に使用されて、
   判断の道筋と組合わせが、一目瞭然になり、
   乏しく不均一な枝分かれの樹状突起であれば、
   判断の道筋や組合わせの、特定や変更のたびに、
   頭が混乱して、
   汎用的な判断の使用に耐えないのと、同じです。
 
   算盤(そろばん)の珠(たま)を、
   接着剤で固めると、計算の役に立たずに、
   動かなくなった珠の並び方の、
   特定の情報を記憶するだけの、
   悲しい用途にしか、使用できません。
 
   人間の脳は、老化すると、汎用性を失い、
   計算の役に立たずに、
   記憶するだけの、樹状突起の枝分かれになります。
 
   樹状突起の枝分かれが活発であれば、
   すべての判断の道筋や組合わせを、表現できますが、
   枝分かれが不活発なら、
   行き止まりの枝分かれのせいで、
   判断の道筋の特定や、組合わせの変更が滞り、
   汎用的な思考に耐えられずに、
   不均一な枝分かれが、特定の記憶を保持するだけの、
   化石のような目的にしか、使用されなくなります。
 
   進化の系統樹の枝分かれが、それです。
   枝分かれが乏しく不均一であれば、汎用性が低く、
   組合わせの変更や、継ぎ合わせなどの、
   計算の用を成しません。
 
   進化論は、文学的な物語として、
   生物の遺伝形質の組合わせを、解釈しますが、
   系統樹の枝分かれは、
   脳の樹状突起や、コンピュータと同じように、
   情報処理のプログラムを実行するための、
   計算機の意味があります。
 
   人間と人間の、
   コミュニケーションのネットワークが、
   コンピュータとして、
   汎用的な計算を、実行しています。
   判断の枝分かれの道筋を特定して、
   組合わせを変更しています。
   枝分かれは、算盤(そろばん)です。
 
 
ようするに、枝分かれの回数を表現できるだけの、
均一な枝分かれの樹状突起があれば、
yesとnoの、分岐の選択を、0と1で羅列したほうが、
判断の道筋を、容易に表現できます。
 
集合果と多花果の違いや、真果と偽果の違いは、
何番目の枝分かれであるかの違いですから、
文学的な物語として、
遺伝形質の組合わせを表現するよりも、
何番目という回数の番号を表示したほうが、
端的で、分かりやすいのでないかと、
思案したくなります。
 
いいや、文学的な物語のほうが、分かりやすい。
ロマン主義者は、そう答えるでしょう。
 
壺状の穴の中には、
翼を持つまで成長しなかった胚珠の残骸が、
多数入っていて、
全体の集合果が熟すると、壺の蓋が破れて、
胚珠の残骸や、翼のある種子が、こぼれ落ちます。
 
小鳥が、胚珠の残骸を啄(ついば)むと、
イガイガが振られて、翼のある種子が、飛び去ります。
妊娠を中絶された多数の胚珠が、鳥の餌になりますから、
うまく出来ています。
 
写真の右上の隅に、
羽ばたきながら啄んでいるスズメが、写っています。
 
 
   ***    ***
 
 
知覚の仕組は、
生まれつきの遺伝形質の組合わせにより、決まりますから、
知覚の内容は、人により異なります。
 
論理法則は、知覚の内容の規則性を、
直感的に瞬時に感じますから、
知覚の規則性であるだけでなく、人それぞれです。
 
まだ知覚されない知覚を、論理法則により、予期します。
次に何が起こるかを、予測しない人は、いませんが、
予測しても、はずれるのは、日常茶飯であり、
はずれなければ、人生は面白くない。
 
他人を殺さなくても、権力を握れば、
かなり正確に、予期できます。
この通りにしろと、他人に命令するのですから、
予言者ムハンマドが、アラブ社会を統治したのは、
当然です。
 
科学は、当たる確率の高い予言ですので、
人生を、つまらなくする秘訣ですが、
多数の人が、少数の人を殺せば、
自作自演の予言が、的中するのは、当たり前です。
おそらく、多数でなければ、
安全には、他人を殺せません。
 
論理法則は、人それぞれの知覚の規則性ですから、
盾突く他人がいなければ、個人の予言は、
当たる確率が、飛躍的に高くなります。
 
自分1人だけなら、自分の知覚の規則性が、
明日(あした)も明後日(あさって)も、
いつまでも続きます。
 
論理能力は、遅くとも1才までに形成されて、
以後は、向上しません。
知覚の仕組が、変更不能になりますが、
ほとんどは、遺伝的形質の組合わせにすぎませんから、
どのような組合わせが、正しいとか、
知能が高いとかと、選別するのが、
権力争いでしかないのは、言うまでもありません。
 
 
   自然が、知覚の外にあるから、
   個人の知覚の規則性が、破綻すると、思うのは、
   正しいと限りません。
 
   個人の知覚の規則性は、
   自然や他人や自分を、知覚する規則性に、
   決まっています。
 
   知覚の外にあるとは、
   1才未満に形成された個人的な知覚の規則性に、
   左右されない意味ですが、
   知覚の内容が、
   知覚の規則性に左右されないことは、
   ありません。
 
   いかに多数の人が、言葉やビデオなどの、
   コミュニケーションのためのメディアの表現を
   共有しても、
   個人的な知覚の規則性に従わなければ、
   個人に知覚されません。 
 
   フーコーの振り子のように、
   知覚されない自然が、
   多数の人の論理法則により類推されて、
   個人の知覚を、間違っていると判断するのは、
   権力の行使です。
 
   振り子と、他の物との関係が、
   回転するのを見て、
   振り子が回転すると、言おうが、
   地球が回転すると、言おうが
   それぞれの人の勝手ですから、
   文学にすぎません。
   大きなお世話です。
    
   ロマン主義は、
   科学が、文学の一種であることを、
   露呈しました。
 
   数学のように、数字や数式を使っても、
   文学の一種であることに、
   変わりありません。
 
   記号論理学は、記号式を使いましたが、
   単純ミスを防ぐためであり、
   言わんとすることは、
   アリストテレスの形式論理と、
   ほとんど同じでした。
   
   特定の生まれつきの、
   知覚と論理法則についての、
   遺伝形質の組合わせが、
   古代人と現代人の一部で、
   同じであったと、確認しました。
 
 
古代と現代の、背の高い遺伝形質が、同じであることは、
十分にあり得ますが、
たんに栄養状態の差だけでなく、
背の低い人間が間引かれて、
古代に珍しかった高身長の素質が、
現代の多数派になったことに、
記号論理学は、言及しませんでした。
 
流行文化や権力と、同じ意味ですが、
コンピュータが、事実を扱わないのも、そう。
 
取扱いは、可能ですので、
人間の遺伝子の人為的な組合わせを、
自由な実験に委ねずに、権力が管理するように、
事実の取扱いを、権力が命令しても、
プログラマーが、拒否できなければ、
コンピュータの命運は尽きます。
ほんの、あと数十年と、私は予想します。
 
現代でも、成人の男性の平均身長が、150cm未満の民族は、
アフリカの密林から出て来ません。
 
理由は、虐(いじ)め殺されるからですが、
アマゾンのように、雨が降っても、
森は、重機の力で、簡単に整地されて、
道路や工場になりますから、
背の低い遺伝形質が間引かれるのは、
男性から女性に性転換した日本人の事情に、似ています。
 
   
   知覚の外にある自然は、知覚されませんから、
   知覚が破綻する心配は、無用です。
 
   知覚されない事実や自然は、ない。
   個人の知覚の外の自然と、言われるのは、
   他人の知覚の規則性や、他人の論理法則ですから、
   他人は、どこに居るのでしょうか。
  
   私たちは、
   遺伝形質の組合わせによる個人的な知覚の規則性を、
   論理法則と感じますから、
   まだ知覚されない知覚の内容や、
   知覚の外にある知覚の対象は、
   個人的な論理法則により、類推されます。
 
   共有される事実は、言葉やビデオなどの、
   コミュニケーションのための
   メディアの表現ですから、
   個人的な知覚の規則性を破る自然は、
   知覚されないだけでなく、
   異なる論理法則によるメディアの表現しか、
   知覚の外の他人として、類推されません。
 
   精神病院では、健常な人に、
   強制的に抗精神病薬を投与しますので、
   その依存症や禁断症状として、
   人為的に作られた精神病の、
   妄想や幻覚や人格の解体などの、精神症状の中に、
   当人の知覚の規則性から
   類推されないメディアの表現が、
   他人の存在として、知覚の内外に登場します。
   
   自然が、個人の知覚の規則性を、裏切るのでなく、
   他人が裏切ります。
 
   人は、生まれつきの遺伝的形質の組合わせから、
   論理法則と言われる知覚の個人的な規則性を、
   自然の摂理のように、確信しています。
 
   個人を裏切る自然が、他人であるのは、
   他人が、自然を僭称するようなものです。
 
   科学は、自然を僭称する多数派の意思の、典型です。
   少数の個人を、
   鉄砲や黒船や原爆などにより、始末しなければ、
   多数の知覚の規則性は、自然と言われません。
 
   神話が、科学に置き換えられても、
   メディアの目的は同じです。
 
   個人を処分した科学技術が、自然であると、
   惚(とぼ)けるから、
   自然は、個人の知覚の外にあると、言われます。
   
   科学技術は、
   多数派の知覚の規則性による自作自演ですから、
   未来を予言して、必ず当たるのは、当たり前です。
   少数の個人を、やっつけるための技術にすぎません。
 
   知覚されない事実があるのは、
   他人の知覚した事実があるからですが、
   知覚の対象や主体の、事実や精神は、
   他人と共有されませんから、
   言葉やビデオなどの、
   コミュニケーションのためのメディアの表現を、
   他人が振り撒いていると、
   精神病患者は言います。
 
   もちろん、抗精神病薬を強制的に投与して、
   精神科が捏造した病気です、精神病は。
   
   だれにも知覚されない噂(うわさ)のような
   事実があるのは、
   他人を殺した真犯人が、
   コソ泥のように、報復を恐れているからかも。
 
   だれにも知覚されない事実や自然は、
   ありませんから、
   科学技術が、すべての人に通用するのは、
   そうでない人を、皆殺しにして来たからであり、
   だれが下手人であるかを、自供できないので、
   自然の摂理であると、惚(とぼ)けるために、
   科学の事実があるようなものです。
 
   サリンを撒いた宗教と、サリン作る科学技術は、
   似ています。
 
   刑事訴訟や精神医療が科学的であれば、
   裁判や精神科の事実を、だれも知覚できません。
   宗教を、法律家が裁くのは、共食いです。
   
   そのように、裁判や医療や科学を、悪く言うのは、
   知覚される個人的な事実を延長して、
   知覚されない社会的な事実を設ける理由が、
   権力以外にあり得ないからです。
 
   科学技術が、間違いなく役立っていると、
   民衆が確信するのは、
   鉄砲や黒船や原爆と同じですが、
   コンピュータが、それに続いたことを、
   日本人は予想できませんでした。
 
 
進化や遺伝や人格などの、
文学のロマンティックな物語のほうが、
私は、好きですが、
判断の枝分かれを、特定したり組み合わせたりする樹状突起や、
APG((Angiosperm Phylogeny Group)分類体系や、
コンピュータの0と1の羅列のほうが、
単純明快で、分かりやすいことは、確かです。
 
知覚や論理法則と、事実や精神と、科学技術や遺伝形質なども、
判断の枝分かれの計算として、再編成したほうが、明快です。
記号論理学とコンピュータが、手を付けましたので、
私は、その道を進めて、精神医療や形而上学を解説します。
置き土産です。 
 
精神医学から見た性同一性障害(発達障害と統合失調症)
というブログを、以前に6年間、書いていましたが、
バクーに1年半、滞在していた間に、
歌詞掲載による著作権法違反の文句が、
JASRACから届いたために、公開停止になりました。

帰国して、
歌詞掲載が著作権法違反にならない業者のブログに、
引越しましたが、
性転換医療は、もう当たり前になりましたので、
書き続ける意味も、希薄です。
 
GID(性同一性障害)のことを、今後も書きますが、
主として、コンビュータから見た精神医療を、
書くことになります。
 
性転換は、自由のほうが良いのですが、
後悔する人が多く、性転換が不都合をきたしても、
ビクともしないように、考え方を広く持って下さい。
 
哲学は、そのために、役立つと思います。
 
 
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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