三浦半島剣崎の大根畑から鋸山 0055 科学と事実と論理と自然

畑の向こうに、浦賀水道と、房総の山々が見えるのは、
いつもの風景。
 
私は、横須賀の軍艦と、三浦半島の大根畑や、浦賀水道を見て、
20年以上も暮らしましたから、長すぎました。
 
今は、ほとんど横須賀に帰らなくなり、
赤坂のマンションで暮す日々になりました。
 
早く、車や家やマンションなどの、持ち物を処分して、
身一つで死ねるように、頑張っています。
 
人生は、50年で充分でした。
身体が、くたびれて来ますので、
長生きしても、何も出来ません。
 
最大の誤算は、50才を超えると、知能がなくなることです。
これは、誰も教えてくれなかった。
50才になると、人間は知的障害です。
早く死ぬべきだったと、後悔しています。
 
両親の世話に、時間がかかりました。
50才を超えてからの月日は、両親と障碍者の介護だけだったような。
健康な子供ばかりが、生まれると限りませんから、
これも、誤算でした。
 
どうして、妻は1人なのでしょうか。
しなければいけないことが多すぎましたので、
妻は、同時に5人くらい、必要だったような・・・
 
それぞれに亭主をつけてあげますから、
わたしが多数を独占するのは、お断りです。
多夫多妻制が良かったと、人生を回顧しています。
 
 
   ***    ***
 
 
2人は、同じ物を見たかのように、思っているが、
知覚の内容は、全然違うかも、知れません。
 
同じであるとする言葉が同じだけかも知れません。
 
石ころを見たと言えば、もう1人も、石ころを見たと。
2人は、まったく違う知覚の内容を、
石ころと、名付けているだけかも知れません。
 
その石ころを空に放り上げると、落ちて来た。
固く重く、水に沈んだ。
 
石ころだけでなく、
空も水も、放り上げるも落ちるも沈むも、固いも重いも、
すべてが、まったく違う意味かも知れませんが、
他人の知覚の中を、検証できませんので、
私たちは、言葉が同じであれば、同じことを知覚したと、
思わざるを得ません。
 
同じ物を見たと、思ったのは、
同じ言葉を使ったの、間違いでないかと。
  
   
   言葉でなく、絵を使っても、事情は同じです。
   同じ絵を指(さ)して、
   知覚の中身と同じであると、2人は言います。
   
   その絵が、
   どのような知覚の中身を、指(さ)しているかは、
   2人の間で、まったく違うかも知れませんが、
   お互いに相手の判断を、検証できませんので、
   知覚の中身と同じである、とする相手の判断を、
   評価できません。
 
   同一の絵を、
   それぞれの知覚の内容を表す印として、
   使ったことが、
   2人は同じなので、同じ知覚を共有していると、
   言われるだけです。
 
   言葉や絵の代わりに、写真を使っても、
   事情は、まったく同じです。
 
   同一の写真に写っている物を、
   2人は、それぞれに、
   知覚の内容と同じである、と言いますので、
   2人は、同じ物を見たと、されますが、
   それぞれが見た物と、写真に写っている物が、
   同じであると、他人は検証できません。
 
   嘘や間違いだけでなく、
   メディアの表現と、知覚の内容の、対応関係は、
   それぞれの人の自由ですので、
   メディアの使い方が、
   他人との関係に、支障をきたさなければ、
   特定のメディアの表現が、
   どのような知覚を意味しても、構いません。
 
そこで、1人が、コップにお茶を入れて、
もう1人が、そのお茶を飲む光景を、ビデオに撮り、
経験した内容と、そのビデオの映像が、同じであると、
それぞれが証言すれば、ビデオの映像を証拠として、
2人は、同じ事実を共有したと、証明できます。
 
さきほどと同様に、
ビデオの映像と、経験した知覚の内容が、同じであると、
それぞれが証言しても、もう1人だけでなく、
他人は、その知覚の内容を、検証できませんから、
その判断の真偽は、わかりません。
 
ビデオに映っていますので、
2人が、ビデオの内容を経験したと、
2人だけでなく、他の人も、判断できます。
 
同一のビデオの映像を、
2人やその他の人が共有した、という意味であり、
同じ言葉を共有する代わりに、
同じビデオを共有しました。
 
2人のそれぞれの知覚の内容を、
他人が共有したのでありません。
 
科学技術の成果のビデオは、
旧来の言葉の代わりになりますが、
けっして、知覚の内容が、
他人に共有されるのでありません。
 
ビデオの映像が、言葉と同様に、
コミュニケーションのためのメディアの表現であることは、
一目瞭然です。
 
 
   私たちは、ビデオのような、科学技術のメディアの表現に、
   嘘や間違いがないことから、
   知覚されたと証明されないにもかかわらず、
   事実が、知覚に因らずに、知覚の外側に存在すると、
   確信します。
 
   科学技術は、知覚を捨て置き、
   唯物論を主張して、信用されましたので、
   事実が知覚されなくても、平気です。
   
   知覚されない科学技術は、あり得ませんが、
   論理法則を延長すれば、
   知覚されない事実を操作することにより、
   知覚される事実を変更できます。
 
   役に立つ事実は、次回も歓迎されますので、
   毒ガスのように、知覚されない事実を使い、
   知覚される事実を変更するには、
   最初に、役に立つ事実を示して置けば、簡単です。
   
   私は、科学技術の使い方の道徳を、
   言いたいのでありません。
 
   論理法則を運用する能力だけでなく、
   論理法則の教条が、人それぞれに違うにもかかわらず、
   特定の教条の組合わせにより、人を殺せるから、
   その組合わせが、
   論理法則として通用するようになったと、
   言っています。
 
   みんなに共通の自然の摂理でなく、
   科学技術は、流行文化を運用します。
   知覚や論理法則の目的が、人殺しでないかと、
   疑われるのは、憲法と同じです。
 
   知覚や論理法則や科学技術などは、
   事実や精神と同様に、
   自然の摂理でなく、流行文化や権力に従います。
 
   抗精神病薬を、強制的に投与された健常者が、
   権力や流行文化に従順になる仕組が、わかります。
 
 
 
   
 
   
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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