今頃に写真を撮るあほは、私1人です。
でも、この枝振りと言い、狭い道と言い、
幹の美しさと、いつも子供が遊んでいる光景は、
忘れられません。
懐かしい青春時代が、毎日続いて、老いぼれて行くのは、
残酷です。
本郷キャンパスの前を、結構、通りますが、
中を通り抜けることは、できるだけ、避けています。
あとは死ぬだけの年齢になり、青春を振り返りたくない。
銀杏は、落葉しても美しく、街路樹にしたいけれど、
実が臭くて、かなわん。
人間も、年老いると、臭くてかなわんと、自分で思いますが、
女でなくて、良かった。
男から女に性転換する人は、年寄りの女を知りません。
若い女しか、見ていませんから、
女から男に性転換するほうが、賢いような。
ごつごつの樹肌のイチョウが、実をつけるのは、
梅の花のように、風流です。
*** ***
何を、どのように知覚したかを、
私たちは、直接に、他人に伝えられません。
電気ケーブルで繋いでも、
私の知覚の内容が、他人にコピーされることは、
ありません。
言葉や絵や写真やボイスレコーダやビデオなどの、
コミュニケーションのためのメディアを使い、
事実と言われる表現を、
他人に伝えなければなりません。
痛いとか美味しいとかは、相変わらず、言葉が頼りですが、
言葉や絵と違い、
写真やボイスレコーダやビデオなどの、科学技術は、
事実の伝達に、嘘や間違いがないと、思われましたので、
ロマン主義は爛熟して、
19世紀後半から、20世紀前半にかけての、
科学主義による共産主義革命や、2度の世界大戦や、
ホロコーストなどを、惹き起こしてから、
ナチスドイツや旧ソ連などと共に、滅びました。
日本の、大日本帝国憲法や日本国憲法は、
純然たるロマン主義を標榜しています。
科学技術立国は、日本の政策です。
ソ連が潰(つぶ)れたのは、
ノーメンクラツーラと言われる官僚主義と、
コンピュータに乗り遅れたからと、言われています。
日本経済が左前になったのは、
バブルが原因と言われていますが、
家電製品を世界に売りまくったにもかかわらず、
コンピュータに負けたからでないかと、疑われています。
鉄砲や黒船や原爆と来て、コンピュータになったことを、
ナチスドイツやソ連や日本は、
理解できなかったのでないかと、疑われます。
子供の頃に、
日本人は、俳句や浮世絵などの、詩的な感覚が鋭く、
長編小説や学術論文のような論理を、理解できないと、
教わりました。
日本人は、
自然の摂理のような論理法則が、科学技術を貫いていると、
誤解します。
何と何と何が、論理法則の教条であるかは、
誰が決めたのでもなく、自然の中に、最初からあり、
科学技術は、自然に埋もれている規則性を、
運慶が仏像を彫り出すように、発見すると。
事実は1つであり、科学技術が矛盾しないのは、
そのような摂理が、知覚に因らずに、知覚の外にあり、
知覚が、自然の摂理に、制約されているからと。
そのような考え方を、唯物論と言い、
唯物論や科学主義は、マルクス主義が掲げたように、
ロマン主義の1派の特徴ですが、
科学主義を掲げたにもかかわらずに、
ロマン主義は、1946年のコンピュータの登場と共に、
滅びました。
写真やボイスレコーダやビデオなどの科学技術は、
個人に知覚された事実が、他人にも知覚されることを、
どのようにして保証するのでしょうか。
知覚の仕組は、遺伝して、
ほとんど生まれながらに、変更不能ですから、
人それぞれの知覚や、知覚された事実が、
遺伝形質の組合わせを超えて、
すべての人に、自然に一致するとは、思えません。
自然は規則的でなく、自然には不均一でないかと、
疑われます。
論理法則の教条は、自然にあるのでなく、
流行文化にすぎないのでないかと。
自然にあるのは、
人それぞれの遺伝的な組合わせの、
変更不能だけでないかと。
個人の知覚は孤立して、他人に正しく伝えられないと、
欧米人やインド人は、古代から考えていましたが、
写真やボイスレコーダやビデオなどの科学技術により、
解決されたと、誤解したので
共産主義革命や、2度の世界大戦や、
ホロコーストなどに至り、
ナチスドイツやソ連などと共に、ロマン主義は滅びました。
コンピュータの成功を見れば、
ロマン主義の誤解は、明らかですが、
インド人は、瞬時に気づいても、
日本人は、生涯、理解できないかも知れません。
ロマン主義が滅びたとは、
どのような意味なのでしょうか。
写真やボイスレコーダやビデオなどの科学技術が、
事実の確信を掲げたのは、間違っていたのでしょうか。
事実のように、権力に由来する概念が、
自然に由来するとされる科学技術の規則性に、
保証されることは、あり得るのでしょうか。
そんなことは、あり得ないから、
ナチスドイツやソ連が潰れたのに決まっていますが、
日本人は、理解できません。
事実は、社会的概念でなく、自然の概念であると、
日本人は思っていますので、
知覚は、人間の出来事を、自然のように、
客観的に見ることができます。
知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
客観的に見ることが出来るそうです。
私は、知覚の主体の精神が、自然現象でなく、
文化のように感じられますので、
知覚が、流行文化の産物の論理法則に、
一致するのを、実感します。
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