品川高輪 鉄道の錦絵 0049 ロマン主義の知覚を否定するコンピュータ

 
三代目歌川広重が、現在の北品川高輪あたりから、
明治4年に、東海道線を描いた錦絵です。
 
安藤広重の3代目ですが、血縁関係は知りません。
八ツ山下を描いたと、書かれていますから、
御殿山の下から、八ツ山橋あたりでしょう。
 
海の中に、土手を築いて、走らせたようです。
見物人で、さぞ、賑わったことでしょう。
右端は、八ツ山橋ですが、
現在の同名の橋と、違う場所と、思います。
 
左端に築地ホテルがあり、明治5年に焼失したそうです。
 
蒸気車と書かれていますが、
線路がなく、鉄道でありません。
間違いなく東海道線ですが、
いつ、鉄の軌道が敷かれたのかを、知りません。
 
この土手を築くにあたり、地元の反対が多く、
明治政府は、金銭的に、漁業権を補償したそうです。
 
ロマンティックな絵です。
わくわくします。
私が、当時の青年でしたら、絶対に見物に行きます。
見逃しません。
 
坂本龍馬も、黒船を見物に行きましたから、
当たり前ですが、見て聞いて、真似をして、
技術を習得して、儲けてから、
真似をするなと、批判します。
狡(ずる)い。
 
 
   ***    ***
 
 
「知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
目や手を使い、知覚する」ような、
物語の生活を、確信するのが、
18世紀~20世紀前半の、
欧米のロマン主義と言われる思想です。
 
数十年前の映画を見れば、
ほとんどが、ロマンティックなように、
常識や流行の全部を、覆い尽しました。
 
ロマン主義の終わりは、
共産主義革命や、2度の世界大戦や、
ホロコーストなどですが、
共産主義は、ソ連が潰れても、まだ無くなりませんし、
武器が進化したせいで、今まで以上に、
世界大戦が起こり易(やす)くなったのは、確実です。
ホロコーストは、これからが本番でしょう。
 
それが証拠に、
大日本帝国憲法や日本国憲法などの系譜は、
世界中の、どの憲法よりもロマンティックで、
純文学や純喫茶のように、
純然たるロマン主義を標榜していますが、
まだ潰れずに、
夏の陣の真田幸村みたいに、これからが見せ所です。
 
アフリカの大草原の野生動物の気持ちを、
ナレーターが、人間の物語のように、解説します。
人格や人情が、事実とは、到底思えませんから、
科学技術の事実も、人格や人情のようなものでないかと、
疑いたくなります。
 
日本人は、
科学主義が、純粋なロマン主義の花であることを、
理解できませんので、
科学技術立国の政策を掲げて、
ナチスドイツや旧ソ連の、科学主義と、
並び立つ道を、選びました。。
 
科学が、どうして悪いんだ。
ヒトラーやスターリンは、
科学の使い方を、誤っただけだろう。
日本の科学技術立国は、
ナチスドイツや旧ソ連を、賛美していない。
 
日本人は、そう考えます。
だから、ロマン主義を理解できません。
 
 
   「知覚の対象の事実を、知覚の主体の精神が、
   目や手を使い、知覚する」に、
   「論理的に知覚する」と、注釈を付けたのは、
   イギリス流の経験主義であり、
   コンピュータを作った考え方です。
 
   ソ連は、ノーメンクラトゥーラと言われる官僚主義と、
   コンピュータに乗り遅れたせいで、
   潰れませんでしたか?
 
   第二次世界大戦後の日本経済は、
   電卓や洗濯機のような家電製品を、
   世界中に売りまくりましたが、
   パソコンが普及すると、左前になりました。
 
   なんで、科学主義がコンピュータに負けるのか。
   コンピュータは、科学技術に決まっている、としか、
   日本人は理解できません。
 
   コンピュータを作った考え方が、
   ロマン主義に、
   「論理的に知覚する」と、注釈をつけて、
   ロマン主義を葬り去りました。
 
   純粋なロマン主義を継承した日本は、
  ロマン主義の最後の抵抗を、試みていますが、
  たぶん、負けます。
  ナチスドイツや旧ソ連と、同じように。
  
 
「精神は、事実と言われる対象を、
論理的に知覚しない」と、
仏教は、言いませんでしたか。
 
インドヨーロッパ文化と言われるように、
仏教は、ヨーロッパ文化の源流の、
インド人の考え方です。
   
コンピュータって、インド人が得意でしょう?
キリスト教も、
精神や事実は、神の御心(みこころ)と、
言っていません?
 
アフリカ人のエジプト文明に、
ユダヤ人は、虐(いじ)められたと、
聖書に書いてあります。
バビロン捕囚から解放してくれたのは、
ペルシャ人でしたので、
ユダヤ人は、ペルシャ文化を尊敬しました。
エジプト文化でなく、インドヨーロッパ文化です。
 
 
   知覚の主体の精神と、知覚の対象の事実は、
   在るのか無いのかが、よくわかりません。
   
   今の日本人や、
   昔のロマンティックなヨーロッパ人が、
   事実は確かに在ると、確信したのは、
   写真のような科学技術を、信じたからです。
 
   コンピュータは、
   知覚が個人的であり、他人と共有するために、
   論理法則を介さなければいけないことから、
   知覚の主体の精神や、知覚の対象の事実は、
   知覚を他人に伝えるための、
   論理法則の項目を確定したり、
   追加したりするための、
   争いや便宜でないかと、
   ロマン主義の主張する知覚の仕組に、
   文句を付けました。
 
   事実や科学を、議論して、
   論理法則を確定するのは、
   嫌(いや)な奴を間引くための、
   権力争いでないかと。
   
 
精神や事実は、在ると考えたほうが、便利なので、
論理的な判断の手順の上で、在るとされます。
 
考える手順の便宜ですが、
知覚の内容や手段の、事実や感覚器官や身体のように、
リアルタイムで理解している論理の手順を、
瞬時に表わすための符号を、私たちは知覚しています。
 
瞬時に考えることのできる論理が、
知覚の中身として、見えます。
 
目や手があるのは、事実ですから、
論理の道筋です。
街の道筋を、見たり知ったり、覚えたりするように、
私たちは、一々の判断の枝分かれや、論理の道筋を、
具体的な風景や事物として、知覚しています。
 
事実のように、
目で見て、手で触って知る知覚の中身が、
論理的な判断の手順を、表示していますから、
論理は、無意識の知覚のように、
頭を悩ませて考える必要は、ありません。
 
瞬間的にわからなければ、一生考えてもわからないのも、
知覚と同じです。
 
 
   当然、論理法則を運用する能力により、
   知覚できる事実の量や質や内容が、違います。
 
   低い人は、事実でない多様な事を、
   瞬時に知覚しますが、
   論理法則自体が、文化の産物ですから、
   何と何が何が、論理法則であるかは、
   流行により異なります。
 
   流行文化の気まぐれやインチキが、
   純化(じゅんか)されて、
   生まれつきに変更不能な、遺伝形質として、
   世代を超えて伝わりますから、
   人により、どれくらいに純化されて、
   どれくらいに、変更不能になり、
   どのような組合せで、遺伝しているかが、違います。
 
   その違いを、論理能力が高いとか、低いとかと、
   評価するのは、権力の都合ですが、
   民主主義では、多数派が権力を握りますから、
   論理能力が高ければ、頭が悪いのは、当たり前です。
   
   科学技術が、論理法則に一致するのは、
   流行文化や遺伝や権力と、密接な関係があります。
 
   科学の定説を巡る争いを、知らなくても、
   鉄砲や黒船や原爆を見れば、
   科学技術の論理が、権力に由来することは、
   一目瞭然です。
 
   コンピュータの時代に、
   原爆に頼ろうとするのが、時代錯誤であるのは、
   ナチスドイツやソ連が潰れた理由と、同じです。
 
   北朝鮮や日本だけでなく、中国も潰れます。
   ロマン主義は、もう通用しないと、
   言ってあげているのに・・・
   
 
知覚の内容を、直接に、他人に伝えられないが、
間接的に、コミュニケーションのための、
言葉や絵や写真やビデオなどの、
メディアの表現により、他人に伝えることができます。
 
石ころや精子やビデオや
コンピュータのプログラムなどを、
直接に、他人に伝えられるでしょうか。
 
石ころを手渡しても、石ころと知覚の内容が、同じであると、
同定しなければいけません。
知覚の内容の、比較や異同や条件などは、個人的な判断であり、
他人と共有できません。
判断の正当性を、他人は検証できません。
 
そのことを、
知覚は他人に伝えられず、個人的であると言います。
 
2人が一緒に、知覚して、同時にビデオに撮り、
知覚とビデオの内容が、同じであると、
それぞれが判断しても、
もう1人の判断を、検証できませんので、
2人が、
ビデオの内容は、知覚の対象の事実のコピーであると、
証言しても、
ビデオと事実が、間違いなく同じである、という言葉を、
共有しているだけであり、
それぞれの判断は、他人に検証されずに、個人的です。
 
それぞれの判断に、論理的な矛盾がなければ、
同じメディアの表現を、共有していることが、
同じ知覚の内容の、事実を共有していると、
定義されるかのようです。
 
それなら、他人に共有されるメディアの表現が、事実であり、
他人に共有されない個人的な知覚の内容は、
事実でなく、存在しないと、定義したほうが、
便利でないかと、疑われます。
 
他人に検証されない個人的な知覚の内容は、事実でない。
他人に検証されるのは、言葉やビデオなどの、
コミュニケーションのためのメディアの表現だけですから、
知覚されるのは、メディアの表現だけであると。
 
それを、事実と定義すれば、
ロマン主義者の言う事実と、紛らわしくなりますから、
事実はないと、コンピュータは言います。
 
知覚される内容は、論理的に矛盾のないことを、
他人に検証されたメディアの表現だけであると。
 
まだ検証されないメディアの表現は、個人的であり、
幻覚や妄想と、識別されません。
少なくとも、メディアの表現の奥に、
表現される本体の、御神体のような事実があったり、
人や他人に知覚されない事実があったりすることは、
ありません。
 
そのような事実があるとするロマンティックな事実は、
個人的であろうが、なかろうが、幻覚や妄想の一種であり、
日本の刑事訴訟や精神医療で言われ事実は、荒唐無稽です。
 
 
   物や状況などの、事実は伝えられなくても、
   表現が伝えられるのなら、
   物や状況などの事実が、表現であれば、便利です。
 
   コンピュータの0と1のデータやプログラムは、
   他人とやり取りできますが、
   知覚された事実でなく、その表現のメディアです。
 
   知覚は、他人に伝えられなくても、
   知覚された物を、他人に手渡すことが、出来ますから、
   事実でなく、物や言葉やデータやプログラムであれば、
   問題ありません。
 
   なんで、事実が必要なのか。
   言葉は、嘘や間違いが多く、
   本当であると、極印を押す代わりに、
   事実であると、言うのなら、
   個人的な知覚の内容を、他人に伝えるには、
   言葉や絵や写真やビデオなどの、
   コミュニケーションのためのメディアの表現と、
   論理法則に矛盾しないことが、必須であると、
   言ったほうが良い。
   事実であると、言うよりも。
 
 
知覚された物を、手渡せば、
知覚の内容を、他人に伝えたことになりますか。
 
ビデオを他人に見せて、
知覚した内容は、ビデオの映像と同じであると、
言い添えれば、
知覚の内容を、他人に伝えることができますか。
 
同じであるとの判断を、
あくまで他人は検証できません。
ビデオの映像は、言葉の嘘と、五十歩百歩になります。
  
知覚は、個人的ですから、
知覚の内容は、これこれであると、
ビデオや言葉を使い、いかに工夫しても、
これこれである、という判断の正当性を、
他人は検証できませんし、共有できません。
 
ビデオや写真やボイスレコーダなどが、
知覚の内容と同じであると、判断できません。
 
  
   人それぞれは、個人的に、
   知覚の内容と、ビデオの映像が、同じであると、
   確信します。
   いつ、どこでも、
   ビデオや知覚は、事実をコピーしています。
   そのような事実があるのは、間違いありません。
 
   しかし、個人的であるのなら、
   自分自身でさえも、確信できないはずなのに、
   どうして、確信するのでしょうか。
 
   たぶん、他人と、言葉やビデオなどを、
   共有しているから、
   論理的に錯覚しているのでなければ、
   いつ、どこで見ても、
   知覚の内容と、ビデオの映像が、同じと、
   感じられるからです。
 
   だいたい、遅くとも1才までに、老化のせいで、
   論理法則が変更不能になりますが、
   論理能力は、それ以後に生涯、向上しません。
 
 
通貨と同じで、状況や、動かせない物などの代わりに、
言葉やビデオなどのメディアを、他人に伝えます。
 
事実の正体が、解釈にすぎない状況なら、
本当の状況が、話をややこしくします。
 
ところが、もっとややこしいのは、
他人に手渡しの出来る物やプログラムも、
状況にすぎない・・・
 
物が状況であるって、わからない人はわかりませんが、
それが正解であると、コンピュータは言います。
 
ロマン主義者は、物と状況は違うと、信じています。
マルクス主義の唯物論は、ロマン主義の1つの典型ですが、
日本人の常識感覚に近いはずです。
日本国の政策の科学技術立国も、そう。
 
物が本当であると、マルクス主義者は言いますが、
状況のほうが本当と言えば、ナチスドイツです。
やはり、科学を信奉していました。
 
物と状況は、同じですから、
一方だけに偏らなくても良いのに、極端に偏ったほうが、
理解しやすいようです、ロマン主義者には。
 
何が足りないのでしょうか。
頭が足りないのは、当たり前ですが、
論理能力って、基本は、
流行文化の価値と、純化された形質の遺伝ですから、
文化と遺伝の関係を、瞬時に理解できないのが、
原因かも知れません。
 
脳の樹状突起の枝分かれが、不均一ですと、
論理能力が低くなります。
 
普段から、判断のすべての道筋と組合せを、
点検して置かなければ、
使わない枝分かれは、消失します。
 
オナニーや朝立ちが、点検の1つと言われるように、
点検のために、毎日毎日、明けても暮れても、
1日が過ぎて行きます。
なんとなく、情けない人生です。
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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