京成本線で、成田空港へ行く途中の、車窓ですが、
冬なのに、京成バラ園に用があり、立ち寄ってから、
成田に向かいました。
土地勘がなく、
電車が、どこを走っているのかを、知りません。
車窓に、ポプラが見えましたので、カメラを向けました。
その向こうの、川らしき水面は、たぶん、印旛沼でしょう。
帰宅してから、googleMapを開き、
streetViewを見るまでもなく、航空写真から、
4本のポプラを、確認しました。
これ以外に、ポプラはなく、4本の間隔が、
この写真と、まったく同じです。
間違いなく、樹木の位置を特定できました。
googleMapは偉いものだと、感心すると同時に、
私が見て、カメラが写して、地図で確認した事実を、
だれも知らないのでないかと、疑います。
知り得ないのでないかと。
みんなに、知らせようとしなければ、
私のプライベートなことを、誰も知らないのは、
当たり前ですが、それでも事実です。
わたしだけでなく、地球上の誰も知らない事実が、
あり得るのも、当たり前ですが、
むしろ、事実のほとんどは、誰も知りません。
人間が知っている事実は、誰も知らない事実の、
何%なのか、ということも、誰も知りません。
それでも、事実が在るという認識のからくりを、
頭の中で、何度も繰り返しました。
見落としていることがあるかも知れないと。
判断の手順の、すべてをなぞることができなければ、
コンピュータに代行させることも、できません。
間違いがあっては、なりません。
私がやりたいのは、
人間が事実を知覚する判断の手順を、
コンピュータに代行させることです。
19世紀以来の現代の時代錯誤の精神医学を、
廃止するために。
論より証拠です。
*** ***
私は、法律家でありませんから、
植草一秀氏と法律の、話よりも、
まるで、ロリコン青年のように、
ビデオのほうが、重要です。
コンピュータや脳に、事実が記憶されているのでなく、
樹状突起の枝分かれや半導体が、
汎用の判断の手段として、
算盤(そろばん)の珠(たま)のように、
詰まっているだけです。
樹状突起の枝分かれを翻訳して、
映像や音声と感じるのは、
変更不能になった算盤の珠の位置を、
文化的なプログラムにより、
記念するかのように、凱歌を上げるかのように、
翻訳したからにすぎません。
動かなくなった時計の針を、
東日本大震災のせいと、翻訳するように、
変更不能になった樹状突起の枝分かれを、
これこれの事実を記憶していると、
記憶力や内容を、評価するのは、
文化という地震が、人間の脳を破壊したと、
自画自賛しているようなものです。
生きていたサンゴが、変更不能になれば、
美しい珊瑚礁と、讃えられますが、
だれが、サンゴを殺したのかと、問いたくなります。
寿命でなく、
生命は、メモ用紙の代わりに使われたから、
死んだのでないかと、私は疑います。
歴史や文化や、経験した事実などの、
データを記録したせいで、
死んでしまった脳の樹状突起よりも、
判断を変更できる汎用的な脳の、
生きている樹状突起を、私は探します。
接着剤で固められて、どの珠も動かない算盤よりも、
ぱちぱちと音をたてて、
快調に計算のできる算盤のほうが、素晴らしい。
文化は、生命を使い、変化を記録しますから、
人間が、文字を使い、経験した事実や趣味や文化を、
ノートに記録したと思うのは、錯覚です。
文化人類学と言い、文化を讃えた学者は、
極楽蜻蛉かも知れません。
文化が、人間の脳を使い捨てて、殺します。
言葉だけでなく、プログラムの規則も、
文化的な約束事ですから、
脳やコンピュータは、みんなの定義を、
社会から引用して、コピーを使用します。
文化が変われば、脳の樹状突起も、
異なる映像や音声に、翻訳されますが、
プログラムやデータを、
入れ替えることが出来ずに、
老化して死ぬのが、普通です。
大人になってから、
知らない言語を習得するのは、困難なように。
樹状突起の枝分かれや、
集積回路の半導体の組合せなどは、
算盤(そろばん)の珠(たま)と同じように、
それ自体は、事実の記憶でないだけでなく、
0と1の羅列や、特定の判断の道筋も、
事実でありません。
文化的に翻訳されて、初めて、
映像や音声などと言われる事実ですが、
文化が、脳の中に無いのは、明白です。
翻訳のプログラムが、コピーされていますが、
文化は変わります。
むしろ、算盤(そろばん)の珠を動かすように、
さまざまな組合せや経路を、選択する汎用性が、
脳の情報処理機能であり、
ノートや図書館のように、
データやプログラムを、記憶することが、
算盤(そろばん)の珠を固定して、
脳が、石頭になる原因を、作ります。
社会や文化が、化石のような脳を喜ぶのは、
そのコピーが、
個体の脳に、保存されるからです。
飲み屋の常連客や、弁護の依頼人のように、
いい鴨(かも)に違いありません。
個体が死に、化石になることを、
社会や文化が目論むのは、
コンピュータの機能と、同じです。
反対に、生命が、社会や文化の存続を望まずに、
コンピュータを敵視するのも、当然かも知れません。
個体が、世代交代をするように、
社会や文化やコンピュータが、性交渉をして、
死んでしまえば、個体は喜びます。
ざまあみろ。
植草氏の迷惑条例は、万引きのように、
発覚してから、お金を払っても、許されないと、
意見する人がいます。
迷惑条例は、
一般的な行為を禁じているのでなく、
他人が嫌がれば、それ以降のその行為を、
禁じています。
嫌だと、意思表示をしたので、やめれば、
犯罪でありません。
意思表示がなければ、迷惑でありませんから。
法律は、やくざや官僚でありませんから、
忖度を、市民に義務付けません。
迷惑条例違反は、親告罪でないと、
意見する人もいますが、
嫌がっていることを、
当人が意思表示しなければ、
他人は、迷惑を認識できません。
事実上の親告罪です。
人が嫌がっている事のうち、
条例に掲げられた具体的な事であれば、
意思表示の後に、やめなければ、違法です。
私は、ビデオが気になるから、書きました。
植草君も、経済学の暇な時に、
形而上学を習うべきでしょう。
とりわけ、ロマン主義を批判した経験論者の、
記号論理学と言われる論考が、
現在のコンピュータを作ったと、知らねばなりません。
一部は、アリストテレスの論理学と異なりますが、
ほとんどは、古代の論理学と同じです。
数学のような記号式を使い、言葉の誤用を防ぎますが、
ほとんどが、数学者です。
経験論者の数学者が、
コンピュータの処理すべき判断の手順を、
見積りました。
1946年に、実際にコンピュータが完成して、
急速に実用化されると、記号論理学は忘れられました。
論より証拠の、実用の学問です。
コンピュータが、社会の役に立てば、問題ありません。
しかし、その判断の手順は、
人間の脳を模倣したから、
荒唐無稽なロマン主義を、批判することになりました。
日本国憲法や大日本帝国憲法だけでなく、
現代日本の常識や道徳や学問や法律や医療や、
科学技術立国の政策などは、
世界で最も純然たるロマン主義を、
いまだに奉じています。
共産主義や2度の世界大戦や
ホロコーストなどが、
歴史上の昔話になったように、
日本の社会や文化が、忘れ去られるのは、
ロマン主義の経緯からして、当然です。
共産主義の中国も、同類でしょう。
コンピュータで保(も)っているくせに、
19世紀のロマンティックな価値観を
信じているのですから、
相撲取りや浮世絵そのものが、
街を歩いているようなものです。
フランス革命の申し子です、日本の憲法は。
何が消えて行き、何が浮き上がって来るかを、
知らなければ、
医者や政治家や法律家に、ならないほうが良い。
相撲が八百長かって、尋ねられても、
あんなもん、わかりようがありません。
競馬と同じですから、迷惑条例に似ています。
事実や精神や知覚や論理法則や科学技術が、
そうであると、わかっていなければ、
コンピュータに、乗り遅れて、
ソ連のように、潰れます。
共産主義やナチスドイツは、
科学主義を掲げたから、当然ですが、
ロマン主義者は、その意味を理解できませんでした。
なんで、科学がダメなのか、
コンピュータは科学技術だろう。
そんなもん、事実や精神や知覚や論理法則に、
疑いが懸かれば、
法律や医療や人生や思想だけでなく、
科学技術も、根本から崩れ去ります。
だから、科学主義のソ連は、潰れたのに。
中国も、そうなります。
マルクス主義は、
ロマン主義の最後の横綱でしたが、
ロマン主義者は、数学ができません。
ナチスドイツやナポレオンのフランスも、
綱を張りました。
私は、吊り下げられたムッソリーニを見ると、
明治以降の日本文化を思い出します。
逆さ吊りにされたムッソリーニの写真は、
日本の新聞に、掲載されたのかしら。
ロマン主義の末路でした。
日本や中国も、そうなります。
日本国を、逆さ吊りにしなければ、
生きる目は、ありません。
植草君は、わかっていない。
自分が吊るされて・・・
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