根元に残っていた枯葉から、たぶん、ウメモドキです。
腰くらいまでの、低い生垣に、よく使われますので、
見覚えているはずですが、
本当にウメモドキかと、訝られると、
説得力に欠けます。
赤い実は、モチノキ科のありきたりですが、落葉樹です。
小さくても、はっきりと梅に似ている6月の花も、
美しいのですが、
赤い実が目当てで、栽植されるにもかかわらず、
雌雄異株ですので、雄株を見つけた人は、偉い。
*** ***
科学技術だけでなく、
自然が、論理法則により、矛盾なく説明されるので、
論理法則だけでなく、
科学に、疑いの目が向けられるのは、
知覚の仕組や、論理法則の成り立ちに、
不整合をきたすからです。
知覚が、論理法則に一致しているのなら、
科学が論理的に説明した通りに、
自然や科学技術が知覚されるのは、当たり前です。
しかし、論理法則は、流行文化を取捨選択して、
ブルドックやダックスフンドの、
品種改良や純化(じゅんか)のように、
遺伝的に変更不能になった形質にすぎないと、
言われています。
錦鯉を選択して、
人間が好む模様の鯉を、遺伝的に作ったとしても、
純化されて変更不能になった遺伝形質は、
人間の好みという流行文化にすぎません。
論理法則は、
そのように変更不能になった流行文化と
言われていますから、
そのように知覚された通りに、自然や科学技術に、
矛盾がなかったとしても、
どのような遺伝的形質が、変更不能になっているかは、
人により、異なるはずです。
5万年や10万年の短期間でなく、
5億年や10億年の長期間には、
個体のばらつきがなくなり、
すべての個体が、同じように、
論理法則と言われる種々の形質を、
均一に受け継いでいるかも知れません。
時間や場所を特定する論理法則は、
数十億年の昔から、確定しているかも知れませんが、
計算の方法は、ここ数万年の、
ごく最近に純化された遺伝形質と、思われます。
科学技術は、最近の人類特有のものですが、
自然現象には、45億年ぐらいの歴史が、
ざらにあります。
矛盾をきたさないはずが、ありません。
論理法則の内容は、種々雑多の遺伝的形質ですから、
組合せにより、相互に矛盾をきたすのが、
むしろ普通でしょう。
事実や精神などの、知覚の構造は、
その代表かも知れません。
精神医学は、
統合失調症や妄想性障害や躁鬱病などの、
治療のために抗精神病薬を使う種類の、
狭い意味での、精神病と言われる病気を
想定することにより、
事実や精神の、異常と正常があると、
主張しますが、
抗精神病薬の依存症や禁断症状でなければ、
診断基準に記載された精神症状が、
初発の未治療の患者に
実際にあったとする証拠や証明が、
世界中を探しても、1例もありません。
つまり、精神病は、
治療のために使うとされる抗精神病薬により、
捏造された病気としか、確認できません。
このことは、
事実と精神の、異常と正常について、
医学的な疑義を、提示しているだけでなく、
健常であろうと、なかろうと、
事実や精神の存在について、
根本的な疑問を、投げかけています。
昔から、事実や精神の存在は、
疑われて来ましたから、
科学技術による科学的な証明がなければ、
写真やボイスレコーダやビデオなどが
発明された最近まで、
むしろ、事実や精神は無い、とするのが、
多数派の意見でした。
精神医学のように、事実や精神だけでなく、
正常な知覚や精神と、その病的な異常があると、
考えられるようになったのは、
19世紀以降と思って、ほぼ間違いありません。
ところが、コンピュータは、
はっきりと、
事実や精神の存在を、否定します。
それらは、バーチャルであると、言いますから、
計算上の便宜にすぎません。
科学的に証明される事実と、
計算上の便宜は、違うのでしょうか、
同じなのでしょうか。
バーチャルや便宜に、
正真正銘の、嘘や間違いや病気が、
あるとするのは、
事実の問題でなく、論理の問題なのに、
法律家や医師は、実際に、
人を逮捕したり治療したりしますから、
なんとなく微笑(ほほえ)ましい。
キリストを信じて、地にひれ伏すのは、
画家の芸術表現ですが、
実際に、地にひれ伏す人を見て、
ああ、21世紀の医者と同じであると、
私は感じます。
母は、100才に近く、
お迎えが来るのを待っていますが、
古くなった機械は、動かなくなるだけと、
医者に言うのも、あほくさくて・・・
人間は、
知覚の内容を、他人と共有することが、できません。
わたしたちが共有できるのは、
知覚の内容を表現した言葉やビデオなどの、
コミュニケーションのためのメディアだけです。
メディァの表現が、同じなら、
知覚の内容も、同じでしょうか。
言葉の場合を考えれば、簡単ですが、
同じ言葉でも、意味は、全然違うかも知れません。
嘘や間違いだけでなく、
言葉遣いが、人により異なりますので、
言葉遣いが同じであると、仮定しても、
知覚の内容を、直接に伝える方法がない限り、
言葉の運用に、論理的な間違いがなければ、
知覚の内容が、正しく伝えられるかも知れないと、
期待するしか、
知覚の内容を、他人に伝える手立てがありません。
しかし、論理は、
まったく違うものを、同じであると、定義するのが、
正しい使い方です。
ウメモドキという文字や音声などと、その樹木は、
まったく違う事実ですが、
同じであると、定義しますから、
まったく違う知覚の内容を、同じであると、
言葉が表現しても、
正しい論理法則に矛盾するとは、限りません。
コンピュータは、はっきりと言います。
ウメモドキという言葉だけが、確実にあり、
その言葉により示された樹木と言われる事実は、
他人と共有できない個人的な情報ですので、
妄想の一種です。
他人に伝えられない情報は、ありませんから、
事実は、ありません。
ボイスレコーダやビデオを、どうするのかと、
文句が出ますが、
それらにより伝えられた音声や映像は、
確実にありますが、
それらが、個人的な事実と同じであるかは、
他人に確認できませんので、
コンピュータは扱いません。
私と友人の2人が、一緒に事実を見て、
1つのビデオの内容と、
個人的に経験した事実が、
同じであると、証言します。
たとえば、
ウメモドキと言われる樹木のほうの事実を
見てから、
けっして、ウメモドキの言葉でなく、
ビデオの映像の樹木を見て、
間違いなく同じであると。
1本の、ウメモドキの樹木という事実を、
私と友人が、一緒に見ると同時に、
1本のビデオに、コピーされたのでないかと、
異議を申し立てます。
このビデオが、事実の存在を、証明している。
事実は、人間の心の外側に、客観的にあり、
多数の人間に、共有されると、
子供なら、信じるかも知れませんが、
小学4年生くらいになると、
直感的に笑いたくなるのを、こらえて、
むしろ、心配するかも、知れません。
言葉もビデオも、同じでないかと。
言葉は、嘘や間違いかも知れませんし、
ウメモドキの、言葉と事実が、違うのを、
誰でも知っていますが、
ビデオが、事実と同じであると、知るのは、
1人1人の、孤独な判断のはずです。
だれでも、同じ思いであると、想像するのは、
その思いを、他人に伝えるための、
同じという言葉を、
みんなが使っているだけでないかと。
同じの中身は、
他人に伝えようがありません。
ウメモドキの木と、ビデオの映像が、
同じであると、友人が言っても、
私は、友人の頭の中を、かち割って、
本当に同じなのかを、
調べることができません。
小学4年生くらいになると、
そんなのが、瞬時にわかりますが、
他人に伝えようとしても、
言葉では伝えられません。
面倒なことになったぞと、私が心配するのを、
友人や大人が、理解できないので、
私は困っているのに・・・
私は、大人になりたくない。
2人が経験したウメモドキの樹木の事実と、
1本のビデオの内容が、同じであると、
おのおのが判断しても、
コンピュータが、多数のビデオの内容を、
同じであるとか、違うとかと、判断するのとは、
事情が違います。
コンピュータは、人間の知覚を通さずに、
ビデオの内容を、同じであるとか、違うとかと、
同定したり識別したりしますが、
人間は、ビデオの内容を、
事実を見聞きするのと同じように、知覚しなければ、
判断することができません。
2人がおのおのに、事実を経験した知覚の内容と、
事実のように知覚したビデオの内容が、
同じであると、判断しても、
それぞれの判断の正当性を、
もう1人は、検証できません。
お互いに事実を確かめ合ったかのように、信じるのは、
「ウメモドキを見た通りに、ビデオに映っていた」と、
お互いに喜ぶように、
2人が、似たような言葉や態度の共有を、
確かめ合ったまでに、すぎません。
知覚された事実は、相手に確かめられていませんから、
初歩的な、論理法則の運用ミスを、喜んでいます。
ウメモドキを見た事実も、
ウメモドキがビデオに映っているのを見た事実も、
おのおのが、自分で経験して、
自分で再確認しただけであり、
他人の経験を、確認したり再確認したりは、
していません。
2人が一緒に見た、という事実についても、
同じです。
それぞれが、そう知覚しているだけで、
他人の知覚の中身を、
もう1人は、確認できません。
人が、知覚の内容を、
他人に伝えられないかぎり、
知覚の内容の事実は、個人的でしかなく、
他人と共有されません。
当然、経験した知覚の内容の事実と、
ビデオを見た知覚の内容の事実が、
同じであると、
両方の事実を知覚した当人が、
それぞれに判断しても、
もう1人は、他人の判断の正当性を、
検証できませんので、
経験事実とビデオの中身が、同じである、
とする判断も、個人的です。
他人と、同じ事実を、共有しているかのように、
それぞれの人が信じたのは、
単に、コミュニケーションのための、
言葉の表現などを、他人と共有したからに、
すぎません。
ビデオを、証拠のように勘違いして、
同じ知覚の内容を、他人と共有しているかのように、
錯覚するのは、
メディアの表現が原因の、論理的な単純ミスです。
他人と共有されるのは、
言葉やビデオなどの、コミュニケーションのための、
メディアの表現だけであり、
知覚されたとする事実は、
個人的な情報にすぎませんから、
事実は、妄想や幻覚の一種であると、言われます。
端的には、目や耳や手などの身体は、
精神や事実と同様に、あると確認されませんから、
個人的な存在です。
昔の人は、無いと言いましたが、
普通は、妄想や幻覚などと、文学的に言われます。
コンピュータは、はっきりと、無いと言います。
あるのは、メディアだけであると。
いずれにしても、刑事訴訟のように、
事実でないから、嘘や間違いであるとしたり、
精神医学のように、
事実でないから、妄想や幻覚であるとするのは、
間違いです。
事実は、嘘や間違いや妄想や幻覚の、一種です。
ロマン主義の中でも、観念論と唯物論は、
互いに相手を、逆立ちしていると、批判しましたが、
自由主義であろうが、マルクス主義であろうが、
ロマン主義全体が、逆立ちしていたと、
コンピュータは言います。
事実とビデオの内容を、同じとしたのは、
ウメモドキと、その木を、同じと、
定義するようなものでありませんか。
言葉と木が、
同じであるはずが、ありませんから、
事実とビデオが、同じであれば、
言葉だけが、端的な事実であり、
その奥に、本当の事実は鎮座しないと、
コンピュータが、主張するように、
みんなに共通のビデオだけがあり、
個人的な事実はないとするほうが、
合理的です。
無い物を、あるかのように仮定して、
それとこれは、同じであると、定義します。
言葉と木が、同じであると、定義するように。
私たちが事実と言っているのは、
ビデオのコピーかも知れません。
少なくとも、ありもしない個人的な事実と、
みんなに共通のビデオの内容が、
同じであると、定義するのは、
論理法則の得意技です。
いやいや、
先に事実を見て、後からビデオを見た。
そう言えば、
時間や場所の特定は、論理法則の1つなので、
事実とビデオが同じであると、定義すれば、
時間や場所も、付け替えられるでしょう。
それを自覚できないのは、
二足歩行を自覚しないように、
習慣的に、自動で行なわれたことに、
気づかないだけと、
コンピュータは、言うかも知れません。
時間や場所が、付け替えられる?
だって、二足歩行は、
時間や場所が変わるでしょう?
移動とは、そういうことに決まっています。
まさか、自然に、時間が経過したので、
勝手に、場所を移動したとは、思いません。
意識して歩いたから、
時間と場所が変わりました。
意識しなければ、時間や場所は変わりません。
意識しないのに変わるのは、
死んでいると言いますが、
眠っているのかも知れません。
普通は、
意識するので、時間や場所が変わります。
時間や場所の変化は、誰が作りますか。
時間や場所だけでなく、
論理法則を運用するのは、
個人の脳という情報処理装置に決まっています。
自然が、論理法則に従順であるなんて、
自然が、憲法や人間の流行文化に従うように、
滑稽ですので、
このブログに、その議論の端緒を、
書いています。
科学技術が論理法則に従うのは、
科学技術が、人間の営為だからです。
当たり前です。
人間の関知しないところに、
論理法則が通用するはずがない。
論理法則は、知覚の癖(くせ)ですから。
論理法則が、すべての人に共通であると、
思うのは、
ロマン主義者の頭が、悪かったからでしょう。
憲法が、論理的に運用されるのは、
漫才のようなものです。
人により、遺伝の内容が違うように、
変更不能な生まれつきの論理法則の教条も、
違います。
日本国憲法を書いた人は、
そのような基礎知識が、ありませんでした。
生まれつきの遺伝の内容が違うのに、
同じ法律を頂くのは、
猿と人間に、共通の憲法を
設けるようなものです。
事実と言われる個人的な妄想の中を、
わたしたちは、いつも移動しているのに、
時間や空間を、付け替えられないと思うのは、
たぶん、あほです。
事実の中で起こることは、
論理法則の運用に、普通に使えますが、
任意に使わないことも、可能です。
その可能性を知り、実用しなければ、
未来は開けません。
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