キノミノセンリョウという名前の、
センリョウの変種です。
品種でありませんから、人為的に作ったのでなく、
自然に自生しています。
交配により、雑種の生まれる可能性が、
どれくらいかを、私は知りません。
生殖の可能性は、生物の種(しゅ)の分類に、
決定的に重要ですから、
人為的な交配を、自然でないとして、
種(しゅ)未満の、品種のレベルにしか、
評価しないのは、文学にすぎません。
人為的には、人間と植物の交配も、可能ですから、
品種どころか、生物の概念を一変します。
人為的な交配を、
種未満としか、評価しない道徳は、
特定の文学が、変更不能になっている人間の精神を、
根拠にしています。
廃れゆく生物学は、
死にゆく人間を、根拠にしています。
生物の新しい分類学は、
生物の作り方と出来上がりの分類になるでしょう。
センリョウ科のあるセンリョウ目は、
モクレン目やクスノキ目やコショウ目などの、
モクレン類と同様に、
双子葉類と単子葉類に、分かれる以前に、
分化しましたので、
古い被子植物の形態を知るために、
必要な一群とされています。
ヒトリシズカやフタリシズカも、
センリョウ科ですが、
花びらがなく、3本の雄しべが、
一箇所から出ています。
雄しべの先でなく、根元に葯を付けますから、
よく見慣れている花の形と、違います。
白亜紀の被子植物の化石も、センリョウ目や
スイレン目やモクレン類などばかりですので、
昔の被子植物の形態を残していると、
考えられています。
私は、進化の系統を類推する手順や、
生殖の可能性などを知るのが、好きなので、
植物を採集して分類するのが、
子供の頃の趣味になりました。
今は、採集をせずに、写真に撮るだけですが、
昔の夢が蘇るような気持ちになりますので、
無意識にカメラを向けてしまいます。
婦人科医や泌尿器科医が、
無意識に人間の生殖器を撮影するのに比べて、
上品です。
一番下品なのは、精神科医ですが、
事実や精神や論理法則などによる知覚の、
変更不能になった進化の系統は、
いつ頃まで、遡ることが出来るのでしょうか。
脳の中では、樹状突起の枝分かれが、
記憶や判断の原因になっていますが、
コンピュータのプログラムの0と1は、
その枝分かれの内の、
特定の道筋を示しています。
汎用性のある判断の枝分かれを、
特定の記憶や判断に、翻訳する手順は、
プログラマーの仕事と同じですので、
その要領を、今さら説明しませんが、
翻訳の手順は、文化的に規定されていなければ、
コミュニケーションのための日常言語にまで、
繋がりませんので、
社会の権力の派出所のように、
翻訳のプログラムが、
私たちの脳に、保存されています。
汎用性のある算盤(そろばん)の珠のような、
脳の樹状突起の枝分かれを、
特定の意味のためにしか、使わないように、
使用を規定しているのは、文化です。
算盤の珠を動かさなければ、
判断の変更が不能ですので、
算盤の役割が、特定の判断の組合わせを、
特定の0と1の羅列として、記憶するための、
化石になってしまいます。
算盤(そろばん)は、
特定の計算のためや、記憶のためにあるのでなく、
珠を動かして、判断を変更するためにあります。
特定の判断の枝分かれや組合わせを、
繋ぎ合わせたり弾き出したり示したりして、
それ以外の判断の経路を、
選ぶ余地が無限であると、算盤は主張しています。
脳では、樹状突起の枝分かれのうちの、
頻繁に使用する経路が残り、
利用されない枝分かれが消滅すると、
選ばれた判断の道筋や組合わせが、
変更不能になり、
脳が、特定の判断の経路を、記憶するための、
ただの図書館になります。
珠の動かない算盤と同じになります。
樹状突起の枝分かれが、不均一な人は、
生きている脳が、死んだ化石のように、
記録のための石ころに、
なり下がっているのかも知れません。
脳の樹状突起の、判断の汎用性を維持するには、
枝分かれが均一であるほうが、有利であり、
特定の選択された判断の経路だけでなく、
選択されなかった無数の判断の経路が、
生きていなければ、算盤の珠を動かせません。
選択された道以外の経路が、消滅したのでは、
石ころや医師に近い。
判断の変更や汎用と、
樹状突起の枝分かれの均整は、
脳の神経細胞の数や、記憶の量よりも、
おそらく重要です。
最も愚かなのは、
医師や科学者や技術者や常識人などかも
知れません。
私は、変更不能になれば死ぬことを、
知っていますが、
何が賢いかは、知りません。
医師は、自分から変更不能になろうと、
努力しています。
文化の通りに、樹状突起が翻訳されるように、
文化的な翻訳のプログラムを、脳に持ち込み、
特定の文化が選んだ判断の経路でなければ、
樹状突起の枝分かれを消失させて、
わざと、判断が変更不能になるように、
算盤や脳を、博物館の化石に、作り替えています。
優等生です。
自殺行為が、賢いか愚かなのかは、
流行文化の価値の問題にすぎませんが、
私は、自分から死ぬ道を、選びたくないように、
権力の手下に、なりたくありません。
とりわけ、肉体の死よりも、
精神の死が、問題です。
化石のような石ころよりも、
精神病院の中の統合失調症の患者のほうが、
生き生きとしているのを、知っています。
精神科医が、患者を、精神病と診断して、
抗精神病薬を、強制的に投与するのは、
権力に媚びているのでなければ、
生き生きとしている人間に、
ゾンビが嫉妬したからにすぎません。
抗精神病薬は、健康な人を、
精神科医のように、ゾンビにする薬物です。
フランケンシュタインやドラキュラに、
そっくりです、精神科医は。
精神医療は、ヨーロッパ中世の、
魔術の生き残りであると、
日本人は知らなければいけません。
こんなものは、潰したほうが良いと、
コンピュータや算盤が、言っています。
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