ミツバアケビ 1995 判断の着目点

郁子(むべ)ほどではないが、
木通(あけび)も、種(たね)だらけですので、
種ごと、口に入れてから、種だけを、吐き出します。
 
面倒臭い果物(くだもの)ですが、
山道を歩いて、疲れている時には、
水分と言い、甘味と言い、
一息入れるのに、丁度良いかも。
 
わたしは、手や指が、ねちゃねちゃになるのが、
嫌(いや)なので、
アケビの実を、スーパーマーケットの袋に入れて、
水のある所まで、持ち歩き、
食後は、念入りに手を洗います。
 
論理能力が低ければ、
ねちゃねちゃを、あまり気にせずに、
不器用と抱き合わせになっているかも、知れません。
 
知能が低ければ、他人に虐(いじ)められますが、
虐める加害者も、
必ず、被害者と同じくらいに、知能が低い。
 
虐められる人も、
ちょっとした境遇や経験の、巡り合わせから、
加害者になる可能性が、高い。
そういう素質です。
 
面倒なのは、
論理能力の低い人には、事実が知覚されませんから、
知能の高い人に、
危害を加えることも、少なくありません。
 
そうすると、
鉄砲玉や原爆をぶち込まれて、殺されますので、
日本を保護するように、責任能力が無いとして、
知能の低い人を、保護します。
 
ほんとうに、論理能力の低い人を、保護するのは、
善良な政策なのか、という議論と、
ほんとうに、アメリカ合衆国は、知能が高いのか、
という議論は、同じです。
 
日本を殺すよりも、こき使ったほうが、得なので、
責任能力が無い、とするのも、
食事のために、決まっています。
 
頭の悪い人間を、品種改良して、
役に立つ家畜を、飼育するために、
責任能力の無い種類の、精神の病気だけでなく、
責任能力の有る種類の、病気や犯罪が、
作られるのかも知れません。
 
家畜小屋の番人って、十手を持つやくざと同じです。
警察と山口組の抗争のために、税金が使われるのを、
日本国民が納得しているのも、似たようなものです。
 
百年河清を待っても、仕方ありませんから、
種(たね)ごと、口の中に入れて、吐き出します。
尻から出すよりも、知的です。
 
なんか、口の中が、砂利砂利して来ました。
それに比べれば、アケビや豚肉は、桁違いに美味しい。
 
     ***          *** 
 
論理能力が低ければ、全体を一覧できないだけでなく、
あらすじがわかりません。
 
判断のマルペケの数量は、枝分かれの量と同じですが、
実際に選択して、経験した道筋(みちすじ)のほかに、
可能な選択の組み合わせを、全部一覧できなければ、
どの道を選ぶのが、最善かを、判断できません。
 
実際に経験した道が、理想的であったのか、
それとも、あほ丸出しであったのかを、
自分で、評価できなければ、
行き当たりばったりの、人生になります。
 
一か八(ばち)かの、賭けばかりって、
頭の悪い人たちの、日常茶飯です。
それでも、キタサンブラックは絶対だと、
御本人は言います。
 
     直感的に、絶対にこれであると、
     わかるそうですが、
     多くは、事実や論理や科学技術などの、
     合理的な判断や、宗教的な教条とも、
     異なります。
 
     論理法則と一致するように、
     事実を類推すれば、論理的と言われますが、
     知覚の中身が、事実に一致するのを、
     論理的と言うべきか、
     直感的と言うべきかは、誤解されやすい。
     
     成人が見ているのと、似たような光景が、
     赤ちゃんの目に、見えるようになるのは、
     1才ぐらいからです。
     生まれたばかりの時は、
     光の強弱を知覚できても、
     成人の見る物の形に、見えません。
 
     だんだんと、大人と一緒の光景が、
     見えるようになりますが、
     言葉を習得するように、
     音や光や、筋肉の力などの、
     文化的で経験的な関係が、
     癖(くせ)になったのか、
     それとも、自然と言われる光景を、
     生まれつきに知る能力が、
     発揮されたのかって、
     仕分けが面倒と、言うよりも、
     他人に伝えるのが、面倒臭い。
 
     いくばくかは、
     生まれつきの変更不能や困難な、
     素質であり、
     いくばくかは、文化的な経験ですが、
     少なくとも、自然の光景のように、
     わたしたちの体の外側の、
     みんなと一緒の、客観的な認識の対象が、
     人間がいなくても、存在すると、
     考える必要は、ありません。
 
     体の内側の、生まれつきの素質と、
     インターネットの交信のような、
     他人との、情報交換の経験があれば、
     説明できます。
 
     コンピュータとコンピュータって、
     電波や電線で繋がっていますが、
     マイケルソン・モーリが、
     エーテルは要(い)らんのかと、
     疑ったように、
     自然がなくても、人と人は、
     交信できるのかと、
     ロマンティックな人たちは、
     文句を言います。
 
     自分と他人って、
     生物は皆、親子兄弟姉妹ですから、
     宗教の言うように、
     神様の血筋で繋がっています。
     他人との情報交換は、
     体の内部の情報伝達と、同じことなの。
 
     論理や事実や科学技術などの、判断は、
     神様や宗教と同じように、
     生殖と世代交代の思想の、続きですから、
     内輪(うちわ)の問題の解決を、
     模索しています。
 
     自分たちの体の、外側を、知る能力が、
     生物にあるかって、
     感覚器官を見ればわかりますが、
     他の生物の個体や、自分の体などの、
     生物の内側を、どうするか、
     という判断のために、
     事実と言われる指標を、計測しています。
 
     生物の内輪の世界を、
     特定の状態に維持するために、
     感覚器官が機能しています。
     生物でない奴のために、
     感覚器官が奉仕することは、
     何もありません。
     全部が、内輪のために、あります。
 
     生物でない奴が、目に見えていると、
     感じられるのは、言葉が聞こえたり、
     数量が見えたりするのと、同じように、
     経験的な文化の産物が、知覚されています。
 
     生物の形も、印が見えていますが、
     調節されるべき目標の、体の内側ですから、
     食べ物のように、大切な身内です。
 
     たぶん、身内が見えるのは、
     生まれつきの、変更不能な機能ですが、
     どのように表現されるのかは、
     経験や文化により、変わりますから、
     生まれつきでもないのに、
     生物でない物が見えるのは、
     いわば純文学です。
 
     生物でない奴は、うんこみたいに、
     遠回しに大切ですが、身内でなく、
     身内の死骸のような、生産物です。
 
1才くらいになると、赤ちゃんの目に、
大人と同じ自然の光景が、見えて来るのは、
言葉を習得するのと、同じことなの。
世界の端っぺたのほうが、だんだんと、
形成外科のように、見えて来ます。
 
エーテルって、
文化を伝えるための、文化もある、という意味かしら。
媒体やメディアって、いわれる奴。
論理は、階層構造になっていますから、
別の纏め方をすれば、別の枝分かれになるのは、
仕方ありません。
 
判断の枝分かれは、
実際に選ばれた判断の道筋と、同じ着目点なら、
選ばれなくても選択可能な判断の組み合わせを、
全部、一覧することができます。
 
着目点が変われば、可能な判断は無数ですから、
全部を一覧することは、できません。
 
論理能力の低い人は、一覧できる判断の、
可能な組み合わせや枝分かれの数が、少ない。
 
生まれつきですが、
判断の着目点が、事実や科学技術などと、違います。
 
他人と一緒の、任意の着目点に、合わせる能力が、
低ければ、そうなります。
何も、可能な着目点を、全部予想しなくても、
他人と一緒の着目点にして置けば、それで良いのに…
 
任意の他人の気持ちに、共感するには、
任意の着目点を、維持しなければいけませんが、
他人に合わせて、
好きでもない組み合わせを維持するのは、しんどい。
 
     権力やお金が欲しければ、しんどいことを、
     気軽にやらなければ、いけませんから、
     死にやすい。
 
     論理能力の低い人たちの間では、
     エステティックが、最大の権力ですから、
     他人が良いと言う顔つきや体つきを、
     維持するために、美容外科に通い詰めて、
     マイケル・ジャクソンみたいに、死にます。
     美人薄命と同じです。
   
     わたしは、権力よりも元気が、良い。
 
     判断を一覧するって、
     部分ごとに、あらすじを作り、
     全部を繋げて、一覧すれば良いのに、
     論理能力が低ければ、
     あらすじを作る能力が、低い。
 
     何を選択して、あらすじとするかって、
     何を着目点にして、判断するのかと、
     同じように、価値の問題ですが、
     あらすじは、無数の判断の中から、
     選択するのでありません。
 
     でも、
     人生のあらすじって、簡単に作れない。
 
     中学の国語の読解力や、初歩の数学の、
     問題を解こうとしても、成績の低い人は、
     一々、人生のあらすじのように、悩みます。
 
     中学の国語や数学に、人生は必要ないと、
     言える奴が、勉強をしなくても、
     一流大学医学部に合格するのに、
     一々、人生に悩む奴が、
     4時間も5時間も勉強をしなければ、
     合格できないのは、当たり前です。
 
     人生に悩む奴を、あほ、と言えば、
     怒られますが、
     4時間や5時間もの奴を、見ると、
     ロマンティックだなあと、感心しました。
 
     わたしも、ロケットを飛ばして、
     月へ行けば、良かったと、思いますが、
     みんなの言うことを、聞かなければ、
     怒られましたから、仕方ありません。
 
     社会の底辺の、
     論理能力の無い人たちの間では、
     全国で1番なら、どこそこ大学医学部って、
     決まっていましたから、
     なんで、あんなあほと一緒にと、
     うんざりしました。
 
     身の回りの、4時間も5時間もの奴を、
     やっつける方法が、当面の課題でした。
 
 
 
  
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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