槲(かしわ)のどんぐり。
柏(かしわ)と書いても、良いのですが、
ヒノキの意味の、松柏(しょうはく)の柏と、
混同を避けるために、槲と、書いて置きます。
この写真は、横須賀ですが、
北海道の石狩浜では、原生林を作っています。
防風林として、よく植栽されるので、
砂丘のカシワが、原生林であると、
わたしは、識別できませんでした。
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わたしたちが、知覚する規則性は、
人為的に作られたものです。
文化のように、作られなければ、
この宇宙に、規則的なものは、何もありませんが、
知覚する人間の側に、
生まれつきに備わる規則性でなければ、
規則的であると、知覚されませんから、
同類を識別する印のようなものです。
特定の組み合わせが、自分と同じであれば、
規則的であると、知覚されますが、
わたしたちは、規則的でなければ、
物事(ものごと)を、知覚できません。
自分を知り、こいつは嫌(いや)な奴だから、
殺してやろう、壊してやろうと、思います。
けっして、わたしたちは、
弱肉強食や、多勢に無勢の多数決などの、
進化論のように、品種改良されたので、ありません。
個体本位の個人主義の、進化論は、
生物の世代交代に、似ていません。
親の知覚の規則性が、子供に伝わらないのに、
生物は、親と違う素質の子を、大切に育てますから、
責任能力を判定する法治主義は、
子供を育てたことがないかのように、幼稚です。
動物や植物が、個体を単位とする個人主義のように、
進化するワケが、ありませんから、
ブルドックやダックスフンドが、
流行文化により、品種改良されたのは、
人間の知覚の仕方のせいでなく、
性転換医療のように、権力のせいでないかと、
疑われます。
進化論や個人主義だけでなく、
刃物や鉄砲や黒船や原爆などを作った科学技術や
合理主義は、権力の便宜でないかと。
アリストテレスの論理中心の考え方だけでなく、
階級社会を容認して、
知能を礼賛するお釈迦さんの考え方も、
眉(まゆ)に唾(つば)かも、知れません。
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