常緑の、食べられるドングリですが、
漢字で書くと、馬刀葉椎(まてばしい)ですから、
ややこしい。
マテの意味が、不明。
葉っぱが、マテ貝に似ている、と言うのですが、
全然、似ていません。
名前と、物や種類の関係って、
ゲイシャという小惑星があるように、
べつに、共通の意味がなくても、
命名すれば、定義したことになります。
わたしたちの知覚の中身が、そうなの。
映像により、そのように見えているのは、
音声により、そのように命名したようなものですが、
べつに、視覚の対象がなくても、
そのように命名すれば、
他人に伝えることが、出来ますから、
共通点などは、あるわけがない。
嘘や間違いだけで、成り立っているのは、
コンピュータの判断のようなものですが、
人間の知覚やコミュニケーションの仕組が、
そもそも、そうなの。
他人とのコミュニケーションって、
電線のようなものですから、
社会が、一つのコンピュータとして、機能します。
コンピュータの中に、電気と定義がありますが、
知覚の対象の、事実や世界は、ありません。
19世紀の初めに、電信が実用化された時に、
人と人とのコミュニケーションが、
脳の仕組と、同じであると、
たくさんの人が考えましたので、
現在のコンピュータが、出来ました。
社会が、脳ですから、
社会の中に、知覚の対象の事実は、ありません。
わたしたちは、脳の中に、住んでいるのでないか。
この世界や宇宙は、脳かも知れません。
コンピュータの中に、
小惑星や生物や戦争や弁護士があると、言うのなら、
それは、
プログラムにより、定義された判断の組み合わせに、
違いありません。
わたしたちが、目で見て、手で触り、耳で聞き、
確かに在ると、知覚する対象は、マルペケの判断の、
雛形のような組み合わせである可能性が、高い。
耳は、聞くのでなく、
聞いたふうな世界を、作る装置であるのが、
統合失調症の幻聴を知れば、よくわかります。
目も、見るのでなく、
見たような世界を、構成するのが、仕事です。
感覚器官だけでなく、
手や足などの運動器官や、神経なども、そうですが、
みんなに共通の、判断の組み合わせを作り、
社会と言われる脳は、変更不能になろうとします。
特定の変更不能な規則性は、
パチンコの玉が、一番下の大きな穴に
回収されるようなものかも、知れません。
世代交代と、言われます。
マテバシイの若葉も、初夏の光が透けるように、
美しい。
お前は、何を言いたいのかと、怒られますが、
わたしは、
流行文化よりも、しょっちゅう変転して、
人の心が、太陽の炎のように、燃え盛るのを、
美しいと思います。
溶鉱炉の生まれですから、
火葬場の焼却炉に、似ています。
*** ***
人間の二足歩行や、
船や飛行機の、操舵や操縦も、そうですが、
オートマチックの運行と、手動操作とを、
切り替えることが、出来ます。
次は右足、左足と、一々バランスを取りながら、
意識して足を出すモードが、なければ、具合悪い。
自動機械のような、
無意識の歩行モードだけでしたら、
水たまりのある道や、泥棒に入る時などに、
ドジを踏みます。
精神の病気も、そうなの。
脳やコンピュータの中に、象や船や他人が、
住んでいるわけが、ありませんから、
この社会が、脳やコンピュータでしたら、
社会の中に、象や船や他人がいると、思うのは、
精神の病気です。
脳やコンピュータの中に、
象や船や他人の、情報が入っているのと、
脳やコンピュータの中に、
そいつらが暮らして居るのとは、
意味が違うでしょう?
社会の中に、
象や船や他人の、情報が入っていますが、
社会の中の、どこを探しても、
そんなものは、在りません。
絶対に在ると、確信している人は、
自動操縦の二足歩行と、手動の二足歩行を、
切り替えるスイッチが、ありません。
もともと、作られていないかも、知れませんし、
故障しているのかも、知れません。
象や船や他人が、
脳やコンピュータの中に、在ると、
思うのは、
それらの情報が、収納されている、
という意味です。
それぞれの、
マルペケの判断の組み合わせが、
規定されて、
それぞれの名前が、付けられています。
その情報が、
脳やコンピュータに、記憶されています。
象と言えば、そのマルペケの組み合わせが、
自動的に実行されますから、
自動モードの二足歩行と、同じです。
でも、プログラムを書くには、
手動モードの二足歩行の仕組を、
知っていなければ、いけません。
脳や脊髄の仕組の、幾つかは、
生まれつきですが、
幾つかは、生まれた後に、習得されました。
社会も、
人と人との、コミュニケーションにより、
脳やコンピュータのように、機能します。
在るのは、
マルペケの判断の組み合わせの、情報です。
それらに、象や船や他人などの、名前が、
付けられています。
わたしたちが、目で見て、手で触り、
耳で聞く知覚の中身は、
オートマチックに実行されたマルペケの
判断の組み合わせですが、
わたしたちが、自覚するのは、
名前だけかも知れません。
耳で聞く音声は、
言葉だけでなく、騒音も、名前ですが、
目で見た映像も、
自動機械に定義されているのは、
名前だけです。
無意識の二足歩行のようなものですから、
一々、次は右足、次は左足と、
体のバランスを、意識しなくても、
構いません。
でも、自動操舵で、港の中を航行すると、
怒られます。
居眠っとるのか、ボケ!
自動操舵でなくても、深い霧の夜でしたら、
簡単でありません。
浅瀬に迷い込めば、座礁しますし、
風や潮や波が、強ければ、流されます。
エンジンが、故障するかも、知れません。
わたしたちが、知覚している具体的な物体は、
特定の判断のマルペケの組み合わせに、
名付けられた言葉のような印なの。
象や船や他人という言葉を聞いても、
その通りの物体があるとは、思いません。
小説なんか、嘘八百ですから。
ところが、人間は、目が良いので、
象や船や他人の、姿を見ると、
間違いなく、そこに、その通りの物体があると、
確信します。
言葉で聞いても、
嘘の対象の、名前だけの音声かも、知れないのなら、
目で見ても、
在りもしない物の、名前だけの映像かも、
知れないのに…
なんで、音声による言葉でしたら、
名前だけの嘘もあると、用心できるのに、
映像による言葉でしたら、
嘘のあることを、想像も出来ないのかしら。
そのことを、人間は、目が良い、と言います。
脳やコンピュータの中に、
象や船や人間が居るのは、
そのような情報があるだけで、
本物の、象や船や人間が、
脳やコンピュータの中に、在るわけでありません。
社会も、脳やコンピュータでしたら、
社会の中の、象や船や人間は、
情報だけの存在でして、
本物が、社会の中に在るのでないと、
知らなければいけません。
本物は、どこに在るのかしら。
社会って、どの範囲なのかしら。
言葉や映像などの、
コミュニケーションの手段は、
マルペケの判断の組み合わせに、
名付けられた名前であると、
言っているのに…
本物って、マルペケの判断のことかしら。
コミュニケーションがあれば、
社会があるのに、決まっていますが、
猿とでも、
コミュニケーションができるように、
虫けらやばい菌だけでなく、物体とでも、
コミュニケーションができるから、
月や石ころななどが、目に見えていると、
考えてはいけません。
それらのマルペケの判断の組み合わせを、
作った奴や名付けた奴が、
コミュニケーションの、相手や親玉です。
人間の体の中の、心臓と指先が、
血管や神経で繋がり、
コミュニケーションをしているように、
マルペケの判断の組み合わせに、
名前やスイッチを付けて、
自動機械のように、
無意識に行われるようにした奴は、
自分かも知れません。
体や脳の中の、コミュニケーションは、
自分が相手の、身内なのに、
コンピュータや社会の中の、
コミュニケーションは、
自分でない奴との、交信であると、
考えるのは、
ヨーロッパの個人主義のせいなのかしら。
血縁の祖先を、
同一の神様と考えるように、
同じ神様を共有する人たちは、
身内であると、昔の人は、考えました。
個人主義って、体の表面により、
他人と、区切りを付けますが、
視覚や聴覚や触覚って、皮膚を越えて、
情報が伝えられます。
人間は目が良いので、
マルペケの判断の組み合わせの、
視覚による名前の付け方の、
手動スイッチが、
統合失調症のように、失われたのか、
それとも、
最初から作られていないのかしら。
言葉を操作できなければ、
識別できないように、
視覚の中身を操作するのは、
手足の動作ですから、
技術がなければ、視覚による言葉が、
わからないのは、当たり前です。
知的障害が重ければ、
統合失調症にならないように、
統合失調症の幻視は、幻聴よりも、
遥かに少ない。
個人主義の利便性の善悪は、
間引かれても、間引かれても、
統合失調症が現れて来るのに、
似ています。
役に立てば、褒められて、
そうでなければ、殺されますから、
精神の病気は、絶えません。
手動スイッチのない病気や障害って、
頭の悪いのと、違うのかしら。
個人主義が、精神の病気の症状かも、
知れませんが、
すぐに習慣になり、変更できなくなるって、
一流大学の医学部に行く人に、
多い特徴です。
エステティックも、そうですが…
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