三出複葉っていう葉です。
1枚の葉が、
3枚の小葉(しょうよう)に、分かれていますので、
葉の枚数を、3枚一組で、1枚と数えるのは、
ややこしいかも。
葉の付き方も、
3枚一組を、1枚と見なしますので、互生です。
対生でありませんから、子供に教える時は、要注意。
これは、マメ科ですけれど、
お豆さんが、食用になります。
普通の花のほうの、豆は、
美味(おい)しくないみたい。
根元(ねもと)のほうの、蔓(つる)に、
閉鎖花の鞘(さや)が成り、
腐葉土に埋もれるように育つので、
モチモチとして、美味しい豆が、出来るそうです。
閉鎖花って、花を開かずに、
蕾(つぼみ)のままで、自家受粉をして、
種子を作ります。
どうせ、自家受粉をするのなら、
花を開く必要がありませんので、合理的です。
それなら、茎や蔓の、上のほうでなく、
下のほうの、地面の生え際に咲いても、構いません。
小さな花で、充分です。
土に埋もれた種子が、そのまま、芽を出せば、
なかなかの、上手(うま)い世代交代かも
知れません。
光が当たらずに、湿っているほうが、
果実は、美味しいのかしら。
とにかく、藪豆(やぶまめ)の、
0.5mmほどの、地下の小さな閉鎖花には、
1cmぐらいの、美味しい豆が、出来るそうです。
落花生は、花が咲くと、柄(え)を伸ばして、
地面の中に、潜ります。
暗く湿っていなければ、子房が育ちませんので、
子房柄(しぼうへい)が伸びて、土に突き刺さり、
根が伸びるように、地下に果実を作ります。
藪豆(やぶまめ)は、地上と地下に、閉鎖花があり、
蔓が、他の植物に巻き付くだけでなく、
匍匐枝のように、地面を這ったり、
地下茎のように、
腐葉土の中に、伸びたりしますので、
地下にも、豆が稔ります。
*** ***
判断の枝分かれを増やして、
たくさんの組み合わせの中から、
どれでも選べるように、
汎用性のある脳みそを作れば、
動物的な感情のような、変更不能な判断を、
廃止したり、変更可能にしたりすることが、
出来るのかしら。
第二次世界大戦後の日本は、家庭電気製品を作り、
世界に売りましたので、高度経済成長になり、
現在のように、豊かになりました。
女性は、お洗濯と、食事の支度のために、
毎日、数時間を費やしていましたから、
洗濯機と炊飯器のお陰(かげ)で、
単純労働から、解放されました。
わたしの子供の頃は、一般家庭の電気製品って、
白熱電球と、真空管のラジオだけでしたから、
お洗濯は、盥(たらい)に洗濯板で、
薪(まき)や炭を使い、ご飯を炊きました。
冬は、火鉢を囲う生活でしたから、
子供は、屋外で遊んだほうが、快感でした。
テレビが普及すると、
日本人は、電卓を作り、世界中に売りましたが、
わたしは、
アメリカ合衆国のパソコンのキットのほうが、
汎用性があるので、重宝しました。
お金なんか、儲(もう)けたくない。
家を建てると、あとは旅行しか、
お金の使い途が、ありません。
時間が余っているのは、死に掛けの人だけです。
権力なんか、欲しくないもんね。
弱い奴を、虐(いじ)める人と、
みんなに虐められる人とは、そっくりですから、
権力って、類は友を呼ぶ共食いに、決まっています。
弱い奴は嫌いって、思う人は、自分を憎みますから、
自傷や自殺のように、
自分を愛している人が、お酒や薬物を使い、
気持ち良さに浸るのと、区別がつきません。
人を攻撃するって、気持ちが良いでしょう?
軍隊や警察を、
お酒やコカインや犯罪や自殺のように言うと、
怒られますけれど、
他人を、やっつける気持ち良さと、
自分を、攻撃する気持ち良さは、
似たようなものなの。
性交渉とオナニーって、目糞鼻糞です。
他人と自分の気持ちは、
類は友を呼ぶように、入り混じり、
層になって、沈殿して行くのが、わかります。
個体の単位で、人の心を、知ろうとするのは、
細胞の心を、知ろうとするぐらいに、
滑稽かも知れません。
わたしは、心や、事実よりも、
判断の組み合わせの中から、
どうして、その判断が選ばれたのかが、
気になります。
理由のわからない判断が、
心や事実よりも、神さまみたいに、面白い。
神さまって、ご先祖様に、決まっていますから、
ばい菌や受精卵みたいなものですけれど、
男と女が、くっつくように、
生まれつきの素質と、文化と言われるプログラムが、
ドッキングして、経験と言われます。
文化的な判断が、物理化学よりも、面白いのは、
心や事実の、変更の余地が、大きいからです。
電卓って、あまり、
プログラムを変更できませんから、
汎用性が、小さい。
判断の枝分かれは、
マルペケの二進法ですから、
汎用性のある脳みそは、
裾広がりに、物凄い数の枝分かれが、
必要になります。
特定の枝分かれの道筋だけを、
奥深く何度も枝分かれさせても、
他の道筋がなければ、
汎用性がありません。
マルペケの判断の組み合わせが、
特定の神経の道筋と、一致するなんて、
滅多(めった)にありません。
その脳味噌の道筋は、
その判断の組み合わせに一致するような、
特定の目的にしか、使用できません。
でも、特定の用途に使うだけでしたら、
他の膨大な判断の枝分かれを、
作る必要が、ありませんから、
電卓みたいに、安上がりです。
汎用性はありませんが、
人間の脳味噌って、
短期間に、簡単に作られました。
わたしは、お金や美貌を、
欲しくなかったので、
日本の電卓よりも、アメリカ合衆国の、
汎用性の高いパソコンのほうが、
いいなあと、思いました。
人間や猿の脳味噌は、
原始的な哺乳類の脳味噌の先に、
枝分かれの回数を、増やしただけですから、
哺乳類に共通の判断の道筋とは別の、
判断の組み合わせを、選ぶことは、できません。
哺乳類に共通の判断までは、
マルペケの組み合わせが、決まっています。
変更不能なの。
たぶん、もの凄く長いマルペケの羅列ですけれど、
その組み合わせ以外を、選びたくても、
その組み合わせの道筋しか、
脳みそが作られていません。
電卓と同じです。
もの凄く長い道筋と、同じだけの、
他の選択肢を作れば、
たぶん、哺乳類に共通の判断だけでも、
地球ぐらいの大きさの、脳みそが、必要になります。
それだけ、たくさんの枝分かれが、なければ、
他の、自由な組み合わせを、選ぶことができません。
特定のマルペケの羅列になるようにしか、
脳みその枝分かれが、作られていませんので、
汎用性がありません。
くそったれですけれど、
人間の脳みそは、
ばい菌みたいな、ご先祖様の仕様を、
受け継いでいますから、仕方ありません。
微生物なんて、脳みそがありませんから、
ただの体の仕様が、脳みそのように、
特定のマルペケの判断の羅列を、
表わしています。
これとあれの、
化学物質の粒々(つぶつぶ)が、
くっついたり離れたりするだけの、
脳みそですから、体と同じです。
このほうが、
判断の枝分かれの、組み合わせを、
たくさん記憶できますので、
物体や事実などの、知覚の中身として、
文化的に表現されています。
男と女がくっつくように、
遺伝的素質と、文化的なプログラムが、
経験により、ドッキングして、
文化のほうの、マルペケの羅列が、
物体や事実として、知覚されます。
人間の判断の要素が、
コンピュータの論理よりも、多いように、
文化のマルペケの枝分かれは、
脳みそよりも、巧妙に工夫されています。
生物の、延々と続くマルペケの羅列の、道筋を、
適当に切り分けて、根本(ねもと)のほうから、
均一に枝分かれをするように、配置換えをすれば、
汎用性のある選択が、可能になります。
実際に判断したマルペケの道筋よりも、
通らなかったマルペケの組み合わせを、
選択可能にしなければ、
判断の汎用性が、得られません。
電卓よりも、パソコンのように、
たくさんの判断の組み合わせを、用意するために、
違うものを同じであると、定義する論理により、
変更不能な生命の、マルペケの羅列を、
仮想的に組み替えて、
わたしたちは、物体や事実などとして、
知覚しています。
サイバネティックスってやつですけれど、
物体や事実と言われる仮想現実を作るための、
知覚や文化の仕組みです。
でも、汎用性のある判断の仕組みが、
良いのかしら。
人生は、
理不尽で不公平で変更不能でなければ、
思い出として、残りません。
自由に選択して、
自在に変更できる判断って、
滓(かす)のような、
気がしてなりません。
痛く苦しく、酷く辛い手枷足枷や、
奴隷のように、不自由な心が、
素晴らしい。
普遍的で必然的な判断や、
思いのままの、自分らしい人生って、
阿片(あへん)を吸って、
気持よくなっているだけのような…
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