英語では、
パッション・フラワー passion flower と
言いますが、
イエスキリストが磔(はりつけ)になった姿に、
たぶん、5本の雄しべを、見立てています。
3本に分かれた雌しべは、
槍(やり)が、突き刺さっているのでしょうか。
花びらや、萼(がく)が、
後光(ごこう)に見えるそうです。
時計草のパッション passion は、
その意味ですけれど、
一般に、passion という言葉は、
傷つける意味が、苦しむ意味になり、
やがて、
性欲に絆(ほだ)された情熱の意味になる、
と言っても、構いませんし、
性欲が、後に、攻撃と服従の意味に、分化した、
と言っても、構いません。
インドヨーロッパ系の言葉って、
自分の体や心や動作を、受動態で表現することが、
多いと思いません?
精神の病気の、被害妄想みたいなものかしら。
何かを、傷つける、攻撃する、という言葉が、
受動態で使われると、
何かや、自分などが、
苦しい、辛(つら)い、耐え忍ぶ、
という意味になります。
インドヨーロッパ語の、pe という言葉は、
傷つける hurt の意味ですが、
passion の pa になり、
情熱や性欲や、キリストの受難などの、
意味になります。
キリストが性欲って、
進化論的と言うか、弁証法的と言うか…
攻撃と忍耐のような、
裏表(うらおもて)の意味が、性欲にある、として、
ノルアドレナリンの作用を、説明するのは、
古代インドの神話ような、
インドヨーロッパ人の、毎度お馴染みの発想かも
知れません。
黒を、白と言うように、
違うものに、共通点を見つけて、
一つの同じ種類として、纏(まと)めたり、
同じ種類のものを、
いくつもに分類したりして、
理解する仕組みって、論理と言います。
共通点に、光や色という名前をつければ、良いのに、
共通点に、また、黒や白という名前をつけると、
面倒です。
でも、論理って、わざと、それをします。
定義と言いますけれど、
これとあれや、こっちとあっちは、違うのに、
脳の神経や化学物質を、繋いだりくっつけたりして、
同じであるとします。
その時に、新しく、光や色と名付けるのでなく、
昔の名前の通りに、黒ならば白であると、
表現します。
わざと、面倒なことをするのが、論理なの。
数学に、端的に現れていますけれど、
手品みたいでしょう?
論理の仕組みって、
物事(ものごと)を、空間や時間により、
一つに纏めたり、いくつもに分割したりして、
理解します。
わたしたちが、
空間的な広がりとして、物事を知ったり、
時間的な、原因と結果として、知ったりするのは、
数学や手品みたいに、
わざと、ややこしくなるように、
知るのかも知れません。
変更不能になるのを、防ぐために、
生物は、世代交代をしますけれど、
物体も、また、
変化しなくなると、認識されなくなり、
別の物体に、変わるのかも知れません。
変化って、
空間や時間や論理などによる認識の仕方です。
変化しなくなると、認識されなくなるので、
名前が変わります。
わたしたちは、その物が壊れたと、表現しますが、
生物が世代交代をするのも、それに似ています。
文化は、品種改良のように、世代を超えて、
変更不能な死骸や灰を、積み重ねて行きますけれど、
文化そのものは、
炎のように、生きているのかも知れません。
文化って、真夏の太陽みたいでしょう?
イエスキリストのパッション・フラワーより、
日本の時計草のほうが、涼しそう。
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