ギンドロ 1543 知覚や言葉や論理と、価値や権力

葉の裏に、純白の毛の生えた種類の、泥の木ですが、
ヨーロッパからの、舶来物です。
 
泥の木って、山鳴らしや箱柳の類の、Populus 属ですが、
黒ポプラでなく、樹皮が白く、いわゆる白ポプラです。
 
柔らかい材質を、泥と言う人が、いるのでしょうか。
水辺に育ちますので、泥や水や光を、連想します。
伐採したくても、地盤が泥というのは、具合悪い。
 
葉が、風に震えると、
白く短い毛に被われた葉裏(はうら)が、
爽やかに煌(きらめ)きます。
 
ギンドロを見ると、心が安らぐのは、なぜでしょうか。
 
           ***          ***
 
統合失調症の症状は、妄想や幻覚や支離滅裂などと、
文学的に規定されます。
 
世間一般の人が、事実や、他人の気持ちなどを、
類推するのは、
妄想や幻覚や支離滅裂などと、まったく同じですので、
統合失調症の症状は、健常な能力に、由来しています。
 
事実や、他人の気持ちとの、一致や不一致は、
試験をすれば、簡単に計測できます。
 
中学1年生の、国語の読解力問題や、
数学の初歩の問題を、解いてもらえば、
世間一般の成人の成績は、中学1年生と同じです。
 
平均的な成人は、
新聞の社会面の、泥棒や火事の記事を読んでも、
あらすじがわかりません。
 
どれくらいに、成績が良ければ、
あらすじがわかるかって、
どこまで行っても、相対的ですから、
切りがありません。
 
どうして、人間は、言葉を理解できるのかって、
昔からの、哲学の問題でした。
 
論理的には、類推できませんので、
数学の能力って、
新聞配達の人が、道順と契約住戸を覚えたり、
囲碁や将棋の棋士が、盤面を覚えたり、
山下清という貼絵の画家が、訪れた風景を、
写真のように覚えていたりしたのと、同じです。
 
どの家が、その新聞を取っているかって、
教えてもらわなければ、
いくら考えても、わかりません。
言葉と同じです。
覚えなければ、知っているわけがありません。
 
昔のドイツ人って、
3才のゲーテは天才なので、
初めてラテン語を聞いただけで、
ぺらぺらと喋れるようになったと、信じていました。
 
ヨーロッパ各国の政府が、
自国の天才を、宣伝する政策を、実行しましたので、
国民は、天才ならば、一度聞いただけで、
ぺらぺらに喋れるはずと、類推しました。
 
笑い話のようですが、
数学や科学技術のように、本当の話です。
 
わたしの、10才代の頃に、
テレビは、まだ公共の場にしか、ありませんでした。
近所の大衆食堂に、テレビがあり、
たくさんのお客さんが、プロレスを見ていました。
 
プロレスは、一見して、
ドタバタ喜劇の一種と、わかりましたが、
食堂のお客さんたちは、本気で信じていました。
 
どうして、反則が明瞭なのに、
警察が出動しないのかと、
国会で、質問をした議員も、いました。
 
世間一般の人が、プロレスの舞台裏を、
知るようになるまで、30年もかかりましたが、
論理能力の高い人は、数分間も見れば、
演技や娯楽の類であると、わかります。 
 
エジソンの映画を、世間の人たちが見た時にも、
演技であると、知れば、観客が怒り出しましたので、
映画会社は、
嘘偽(うそいつわり)なく、本物の戦争であると、
宣伝しました。
 
舞台の演劇は、大昔から、演技でしたので、
観客は怒らないのに、
映画が演技であるのは、許せない詐欺であると、
思うのが、世間一般の常識でした。
 
ただの常識や流行感覚と、
数学や科学技術などの、論理や事実などとは、
同じでないかと、
電信が発明された時に、多くの人が疑いました。
 
記号論理や数理哲学などの、
論理や数学の成り立つ基礎を、
はっきりとさせる考え方は、
その疑いを、つきとめるための、手段の一つでした。
 
その成果を、
だれの目にもわかるように、見せびらかす方法が、
映画やラジオやテレビやコンピュータの中の、
戦争やオリンピックやプロレスなどの、
科学技術でした。
 
     論理能力と、目で見て、手で触って、
     耳で聞いて知る事実の、認識能力とは、
     だいたい、同じことを言っています。
 
     目や耳などによる事実の認識って、
     論理的な類推を、
     胎児の頃から、行なっていたので、
     自動機械のように、習慣になり、
     無意識に瞬時に、
     行なわれるように、なっただけです。
 
     数学の論理や、知能検査の問題って、
     考えることなんて、何もありません。
     問題を読み終えた時には、
     答えが閃いていますから、
     頭を悩ませたり、しません。
 
     新聞配達の道筋や、
     どの家に配るかを、知っているのも、
     同じです。
 
     知っていることを、考えたりはしません。
     忘れてしまったことを、何かの拍子に、
     思い出すかも知れませんが、
     論理的に類推する人も、います。
 
     登山の道筋って、
     岩や木に、ペンキやテープの印が、
     付いています。
     自分で、印を付けて置けば、
     忘れた時に、思い出す手立てに、なります。
 
     最初に新聞配達の道筋や家を覚えたのは、
     誰かに教えてもらったに、決まっています。
     伝票の住所を見て、自分一人で配った人は、
     多くありません。
 
     あんなもん、言葉と同じで、
     人間や伝票に、教えてもらわなければ、
     ゲーテみたいに、知っているわけが
     ありません。
 
規則的でないものは、
類推しても、わかりませんけれど、
論理法則と言われるやつは、
類推すれば、わかるのかしら。
 
神様って、御先祖様に決まっていますから、
規則と言われる雛形(ひながた)が、
この宇宙に、最初から在ったり、
生まれつきに遺伝していたりするって、
考える人もいます。
 
胎児の頃に、覚えた文化かも知れません。
みんなの通りに、
こっちとあっちを、くっつけなければ、
お母さんの体が覚えている文化的な習慣に、
馴染めませんから、
お腹(なか)の中で、死ぬことになりかねません。
 
みんなと一緒でなければ、
犯罪や精神病などと言われて、殺されるのは、
心筋細胞の一つ一つが、
それぞれのリズムで、拍動していたのに、
くっつくと、
同じ一つのリズムで、拍動するようなものです。
 
人間の細胞なんか、分業用に作られていますから、
一つだけで、放ったらかしにされれば、
じきに死にます。
同じ細胞を、たくさん作っても、死にます。
たくさんに繁殖して、
一つ一つが、違う仕事を分担しなければ、
生きて行けません。
 
細胞の数だけ、違う奴がいるので、
そいつらを、一つに纏める権力が、
成長や発達とともに、
みんなの間に、手広く展開します。
 
遺伝子が記憶しているのは、権力の陰謀であると、
言えば、
刑務所や精神病院に、ぶち込まれるかも知れません。
 
犬や豚の品種改良と、同じです。
人間の好みの奴を、選択しているだけで、
人間の文化に、一致した遺伝情報だけが、
純化されます。
 
当たり前ですけれど、
遺伝の手順の中に、文化が挿入されているように、
言葉や事実などの、文化の中身って、
伝達する手段に、決まっています。
 
自分だけの、独自の言葉を使っても、
他人に通じないように、
みんなの事実と言われる共通点により、
物事(ものごと)を一つに纏めて、認識しなければ、
コミュニケーションの役に立ちません。
 
権力を行使する手段ですから、
コミュニケーションって、
みんなを十把一絡げに纏めます。
ちゃんと、戦争の準備をしてから、
盾を突かなければ、
間引かれて、食べられるのは、当たり前です。
 
     規則って、権力ですから、
     文化的に継承されます。
     論理や事実や言葉や、新聞配達の道順や、
     棋士や貼絵の記憶のようなものです。
     丸覚えなの。
 
     記憶の仕組みが、判断の原理であると、
     コンピュータが言っているのですから、
     規則は、丸覚えされた他人の気まぐれに、
     決まっています。
 
     みんなに普及すれば、変更困難になり、
     融通が効かなくなります。
     論理法則って、
     マスプロ mass production ですから。
 
     死骸みたいに、
     御先祖様や神様や、土くれのような、
     という意味を、
     わたしたちの目や耳は、
     事実として、認識します。
     伝統文化なの、感覚器官の認識の中身が。
 
     アンテナのようなものですけれど、
     蟻が出会うと、
     触覚を突き合わせるみたいに、
     目や耳は、
     コミュニケーションのための器官であると、
     統合失調症の人は言います。
 
     だれかの意図が、
     事実として知られますから、
     みんなと一緒のことが出来なければ、
     被害妄想になるのに、決まっています。
     それが苦しければ、誇大妄想になります。
 
     世間一般の人の判断は、
     妄想と幻覚と支離滅裂により、
     成り立っています。
     そうでない判断って、ありません。
 
     論理能力は、いくら高くても、
     どうせ相対的ですから、切りがありません。
     能力が高くても、
     絶対的な論理法則を知ることができる、
     というものでありません。
 
     いくら能力が高くても、
     プロレスやオリンピックや
     映画の戦争などを、知るようなものです。
     本当のプロレスや、本当のオリンピックや、
     本当の戦争を、
     コンピュータが知っているわけがない。
 
殺し合いって、競争ですから、相対的です。
絶対的な能力が、無いように、
文化の流行を、左右するのは、テレビや映画の中の、
プロレスやオリンピックや戦争のほうです。
 
習慣的な判断が、目や耳や手による認識のように、
無意識に行なわれて、
作り物が、事実と言われるようになります。
 
生まれたばかりの赤ちゃんは、
事実を認識しませんけれど、
生まれた後に、事実が作られたのでなく、
たぶん、お腹の中に居るときに、習得したものです。
 
統合失調症やGID(性同一性障害)のような、
精神の病気だけでなく、
世間一般の人の、妄想や幻覚や支離滅裂も、
胎児期に作られた可能性が、高い。
 
プロレスの動作を見ても、
作り物とわからない論理能力の低さは、
世間一般の、社会の底辺の人たちの、
日常の暮らし振りに、よく現れています。
 
論理能力って、切りがないように、
人殺しや生殖やエステティックなどの、
融通の効かなくなった規則を、信奉するのは、
権力と同じです。
 
ロマンティックな映画の、戦争と恋愛とか、
プロレスの観衆を味方につけたり、
敵(かたき)役を演じる情動とかって、
腸捻転の外科手術や性転換手術みたいに、
面白くて、病み付きになるかも知れません。
 
  
 
 
 
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

0コメント

  • 1000 / 1000